ビュクリュカレ

松村 公仁 アナトリア考古学研究所研究員

第9次ビュクリュカレ遺跡発掘終了報告(2017年)

図 1[クリックで拡大]

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2017年度のビュクリュカレ遺跡(図1)の発掘は6月1日より7月15日まで行われ、トルコ共和国文化観光省からは査察官として、クルシェヒール博物館学芸員サードゥッラー・アリマフムットオウルラール氏が派遣されました。彼は以前にも査察官として一緒に調査をしており、とてもスムーズに作業が進みました。本年度も、これまで継続して進めてきた都市部における地中探査、そして岩山部における発掘調査を行いました。

A. 地中探査:

今シーズンの地中探査は、5月1日から8日にかけて行いました。この日程は、担当する国立研究開発法人産業技術総合研究所の熊谷和博研究員に合わせてのことなのですが、毎年連休を利用して参加してくれている熊谷さんには感謝のしようがありません。今年の地中探査ではいくつかの異なった目的を持って調査をしてもらいました(図2)。

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1. 都市壁のレーダー調査(図2、地点1)

都市部の城壁が3つ存在していることは、これまでの調査結果から推測していますが、その確証を得るため、今年はレーダーを使ってこの城壁が重なっている部分の調査を行いました。レーダー探査により遺構の深さや、城壁が上下に重なっている場合には、それがどのくらいの深さに存在するのかを明確にできるのではないかと期待し、皆で地表面を綺麗に清掃して障害物を取り除いてから調査に望みました。しかし、残念ながら良好な結果は得られませんでした。堆積した土が10 m以上あり、深すぎて測定できなかったのです。 探査に使うアンテナを大きくすれば深くまで測定可能とのことですが、逆に精度が落ちてしまい、何があるのか良くわからなくなるようです。来年に向け改めて作戦を練りなおし、再挑戦したいと思います。

2. カールム時代の城壁調査(図2、地点2)

岩山頂上部で見つかっている巨石建築物と同時代の建築遺構を、テラス部で発掘するための予備調査を行いました。今回調査したテラス西側斜面には、地表面に巨石を使った礎石の一部が顔を出しています。これまでの発掘調査結果から、このような巨石建築遺構はカールム時代に作られたものであり、ヒッタイト時代にはもう少し小型の石を使っていたことが解っています。この礎石に沿って磁気探査を行い、この壁がどこを走っているのかを明らかにすることにより、テラス部の発掘に際し、カールム時代の堆積層に達するにはどれだけ掘り進む必要があるのか予測がつけられると考えました。当初、テラス部の表採調査では採取した土器のほとんどが鉄器時代のものだったのでかなり厚い鉄器時代の堆積があると考えていましたが、調査の結果、壁は北に行くほど浅くなっていることが判明しました。将来的にこのテラス部を発掘する際には北側から掘り始めると比較的容易に2千年紀の層に達することが出来そうです。

3. テラス部の遺構検出(図2、地点4)

テラス部ではもう一つ、これまで調査されていなかった北東部の磁気探査を行いました。いつも磁気探査では、磁気が地中のあらゆるものに反応するので、遺構を見分けることのむずかしさを実感するのですが、ここでも磁気に反応するいろいろなゴミがあり、平坦部ではなかなか遺構が見つかりませんでした。しかしそのような状況のなかでも、東側斜面部において、以前から確認されている後期鉄器時代の城壁と考えている壁がさらに続いていることが明らかとなりました。頂上部の発掘で確認されている城壁がこのテラス部を取り巻いていることがはっきりと確認でき、さらに言えば、テラスは後期鉄器時代にこの城壁を作ることによって形成された可能性があります。それ以前の層位では巨石壁が南に向かって下がっていることを考えると、今のような平坦な広いテラスはカールム時代あるいはヒッタイト時代には存在していなかった可能性があります。   

4. 頂上部におけるレーダー探査(図2、地点5)

頂上部においてはこれまで磁気探査しか行っていなかったため、レーダー探査を試しました。その結果、遺構の存在を確認することができましたが、これまで発掘された遺構とのつながりを見ると、今回検出された遺構は第I層のオスマン時代の建築遺構の続きであることが考えられます。

5.キャラバンサライの調査(図2、地点3)

この遺跡に関する18、19世紀に書かれた文献を調べて行く中で、赤い河に掛かるセルジューク時代の橋の近くには、かつてキャラバンサライが存在していたことが解ってきました。残念ながらこの辺りは発掘調査を開始する前に、すでに重機で土を採取された状態になっていましたが、そのような目で橋の近くを見て歩くと、建物の礎石と考えられる石列が確認されます。そこで磁気探査によって残っている遺構の形状を確認できるのではと考えたのですが、残念ながらあまりにも大量の石が混じった土のため、礎石の続きを確認することはできませんでした。

このように、今回の地中探査ではいくつかの明確な目的を持って5つの異なった地点で調査を行いました。研究者の姿勢として、「常に、一つのことを愚直に続けて行く」ことを心がけています。続けて行くうちに新たな発見や問題点が出てくる、ということはカマン・カレホユック遺跡の調査で実感しているところです。この地中探査においても、検討を繰り返しながら粘り強く継続していくことによって、より良い方法が確立され、より良い結果が生まれてくるものと期待しています。

B. 発掘調査

今年の調査では3チームを編成し、3地点で調査を行いました(図3)。

図 3[クリックで拡大]

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1. ヒッタイト帝国時代の遺構を追う

これまでにN5W3区においてヒッタイト帝国期の焼土層を発掘しました。この焼土層からはかつて粘土板が1点出土しており、その焼土層の続きがN5W4発掘区で出土することを期待して調査を行いました。昨年度は後期鉄器時代に属する大型の石敷き遺構の取り外しに全シーズンを費やしたので、今年はようやくその下のヒッタイト時代の層を掘り進めることができると考えていました。しかし、期待に反して深さ2m以上の大型の貯蔵穴(ピット)が出土し、 その発掘に今シーズンの大半を費やすことになりました(図4)。さらにそのピットによって一部破壊されている堀り込み式の住居も、何度かに渡り建て替えられていました。来年度はこの住居の調査を進めて、ヒッタイト帝国時代の焼土層に達したいと考えています。

図 4[クリックで拡大]

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図 5[クリックで拡大]

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図 6[クリックで拡大]

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発掘シーズンの最後に、N5W3区のかつて発掘した焼土層を再確認したところ、昨年度に床面として発掘を止めていたところより下に、さらに床面が存在することがわかり、床面直上の堆積を発掘しました。すると床面上に散らばる土器片が出土したのと共に、3箇所の炉が見つかりました(図5)。その周辺からは坩堝(るつぼ)の破片も見つかり、その坩堝には青銅が付着していました(図6)。つまり、ここは青銅製品の製作工房だったと考えられます。宮殿内に様々な工房を持つのは紀元前2千年紀においては一般的だったようで、その産業を宮殿が管理していたようです。ここに工房が存在するということは、もしかすると、この地域に鉄生産のための工房も存在している可能性があるという期待が膨らみます。これまでヒッタイト時代の鉄工房址は未発見で、都市のどの辺にあったのかもわかっていません。さらにガラス工房も見つけることができるかもしれません。ビュクリュカレ遺跡で出土しているガラス製容器が作られた工房を見つけることができれば、この時代に関してアナトリアで初めてのガラス工房址の発見となり、この地における最古のガラス容器製作地の特定にまた一歩近づくことができるかもしれません。

2. カールム時代の巨石壁の続きを追う(発掘区N4E0, N3E0)

図 7[クリックで拡大]

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カールム時代の巨石建築遺構は他に類を見ないものです。その全容を解明するために、高さ7mの巨石壁を北に向かって追っていった結果、ようやく続きが見えてきました(図7)。この作業は大変な労力が必要です。というのも、その上に作られた後期鉄器時代の幅2m高さ3mもの石壁を取り外さなければならないからです(図8)。すでに昨年度からこの取り外しの作業を始めていましたが、今年ようやく一つの発掘区の全ての石を取り除くことができました。

図 8[クリックで拡大]

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この区域の作業は労力を要し大変だと書きましたが、実は密かな期待もあります。というのも、これまでの調査結果から、ヒッタイト時代の建築遺構はかなりの部分がその後の居住によって破壊されてしまっていることがわかっており、その破壊された瓦礫はおそらくこの城壁のある東側斜面に捨てられていると考えられます。つまりこの部分を発掘すれば瓦礫の中からヒッタイト時代の粘土板文書が出土する可能性が高いと考えています。

3. カールム時代の大型遺構調査

宮殿址と考えているカールム時代の巨石建築遺構は、これまで東側部分のみを発掘してきました。それには一つの理由があります。西側を掘ってしまうと、南側にトラクター等の重機を持ち込むための通路がなくなってしまい、発掘作業が困難になってしまうのです。その解決策として、一昨年から発掘で出た土を西側斜面に少し盛ることによって重機が通れる道を作り、もう少し西側に向かって発掘区を広げることが可能となりました。そこで今年は、新たに二つの発掘区N1W2、N2W2を設けて発掘を開始しました。今年は第I層のオスマン時代(図9)と、その下の後期鉄器時代の住居を調査したところでシーズンが終了しましたが、来年度の調査は、すでに顔を出し始めたカールム時代の焼土層の調査にすぐに入ることができるでしょう(図10)。この部分はかつてガラス容器が出土した部屋(R14)の西隣に当たるので、さらなる遺物の出土が期待されます。それと共にこの大型巨石遺構の北側の発掘区では、これまでに最も新しいと考えられるヒッタイト帝国時代の建築遺構の一部が出土しており、その遺構が南にあるこの発掘区にまで伸びているはずです。この時代の遺構は残りが悪くほとんど分かっていないため、破壊されずに残っていることを祈るばかりです。

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このように今年度の調査では、大きな成果を期待して発掘を行いましたが、期待した層には未だ到達せず、そのための準備をした形になりました。来年度の調査ではこれらの目的に向かって発掘を継続していきたいと考えています(図11)。

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第9次ビュクリュカレ遺跡発掘調査(2017年)を開始しました

今年度は5月1日から8日にかけて地中探査を行いました。この探査は国立研究開発法人産業技術総合研究所の熊谷和博研究員によって行われました。毎年熊谷くんには休暇を使って来てもらい調査を行ってもらっています。

図1

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今年度の地中探査では5つの目的に沿って調査が行われました(図1)。一つ目の目的は都市部の城壁の重なりを確認することでした。これまでの調査では、地磁気調査によってヒッタイト時代の箱式都市壁とそれより古いと考えられる二つの別の都市壁が確認されています。これらの関係を理解するために都市壁門の部分でレーダー探査を行いました。この探査によって上下に重なる都市壁のそれぞれの深さを理解しようとしました。レーダー探査の障害となるため、調査地点の石を拾い草を取り整地して探査しました(図2)。探査結果は現在解析中ですが、都市壁が斜面にあること、また10m以上の堆積があることから良好な結果を得ることは難しそうです。

図2

図2

二つ目は発掘を行っている岩山で紀元前2千年紀の城壁がどのように続いているのかを理解するために、テラス部の斜面に露出している巨石壁の続きを地磁気探査で探ることでした。この探査の結果、城壁は現在のテラス地表面より5~10mの深さのところに存在することが理解されました。

三つ目は昨年度鉄工房址を求めて調査した遺跡南部に存在すると考えられるキャラバンサライ跡を検出することでした。この地域は道路工事のためなどに土砂が採取されており、一部礎石らしきものが露出していたので、その周辺を探査し、残っている建築遺構の形状を把握することを目指したのですが、あまりに石が多いためか良い結果を得られませんでした。

四つ目はテラス部の地磁気探査を行い、後期鉄器時代の城壁を把握することでしたが、今回の調査でこの時代の城壁の形がほぼ理解できました。

  

最後に現在発掘中の岩山頂上部でレーダー探査を行い、その有効性を検証しました。その結果、以前行った地磁気探査でははっきりしなかったオスマン時代の建築遺構が把握できました(図3)。

図3

図3

地中探査を終了後、一旦調査を中断し、5月25日から屋根外しを開始し、発掘調査を進めています。