ビュクリュカレ

松村 公仁 アナトリア考古学研究所研究員

第12次ビュクリュカレ遺跡発掘終了報告(2021年)

昨年度はCovit19のため発掘調査の中止を余儀なくされましたが、本年度は調査を実施することが出来ました。トルコにおいては日本に比べて予防接種が迅速に行われたため、外国人である私を含め労働者のほとんどが、また発掘期間中には参加学生も予防接種を受けて作業を行うことが出来ました。

本年度の発掘調査は5月24日から7月31日までの期間に行われ、査察官としてアンカラ・アナトリア文明博物館の考古学者ファーティー・メフメット・ドゥルカディルオウルさんがトルコ文化観光省文化遺産および博物館総局から派遣されました。

本年度の調査では、これまでの調査の継続の他にもう一つ大きな目的がありました。それは2019年の地中探査で確認された都市壁の南西部に拡がる建築遺構について試掘調査を行うことです。この地域は第3級遺跡に指定されていましたが、遺跡保存の観点から第1級への指定変更要望書をアンカラ文化遺産保護地域局に提出したのですが、変更するためには、遺跡が位置するクルッカレ県を担当しているアンカラ・アナトリア文明博物館の監督の下、試掘調査を行うようにとの通達が届きました。そのため、昨年度行う予定であったこの試掘調査を本年度の発掘調査に組み込んで行うことにしました。

図 1[クリックで拡大]

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試掘調査予定地域はビュクリュカレ遺跡があるカラケチリ町の所有地であるため、町長からの許可を得た上で試掘を行いました。この場所は、以前は国営の砂糖工場が所有しており、その原料である砂糖大根の集積場と管理用の小さな建物があったので、町長から許可を得てこの建物を調査期間中利用させてもらいました。町ではこの地域をクルッカレ県が作った赤い河沿いの公園と一体化させて観光地化し、この建物はビュクリュカレ遺跡を紹介するパネルを展示する場所として活用し、その周りには遺跡を壊さないように土を深く掘らずに建てられる遊牧民の特徴的なテントを張り、そこで町の物産を販売することを計画しています。

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1. D地区での発掘
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都市壁の南西部に拡がる建築遺構のある地域をD区としました(図1)。この地域において、2019年の地中探査では少なくとも2つの異なる時期の上下に重なる多数の建築遺構が確認されました(図2)。発掘調査開始前の2008年に行った表採調査では都市壁の外側部分では土器がほとんど散布しておらず、集落が拡がっていたとは考えていなかったのでこの結果は驚きでした。ただし地中探査だけでは遺構の存在は確認できても、その遺構がどの時代のものかまではわかりません。その上、地表面に土器片がほとんどなかったことも時代決定を困難にしていました。しかし、30mを超える大型の建築遺構やその形状から、城壁内の都市と同じ4000年から3700年前頃のカールム時代の建物がこの地域にまで延びていた可能性があると考えました。

試掘に際してはすでに確認されている重なり合った建築遺構が含まれるように10mx10mの3つの発掘区で発掘をしました(図3)。

調査の結果、この地域にはセルジューク朝時代の集落が拡がっていたことがわかりました。年代の決め手となったのは建物の床面から見つかった貨幣です(図4)。文化遺産および博物館総局のアディル・オズメ氏によると、この貨幣にはアッバース朝カリフ、ナスルリディヌルラーの名が刻まれており、アナトリア・セルジューク朝時代の1219-1224年の期間に製作されたものです。

図 4[クリックで拡大]

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発掘で出土した建物は北西に向かって高くなる斜面に、面を持つようにきれいに造られた壁で構成された2部屋(R2, 3)とそれに隣接する東側の部屋R4から構成される建物です(図5)。そしてこの建物を取り囲むようにW1の壁が存在します。南東隅で確認された壁W8も同じ時代の壁で、おそらくここに段差があり、一つ低い段の建物が存在していました。

部屋R4は2つの時期があり、古い時期に存在した入り口が、次の時期には石を詰めて塞がれていました(図6)。床面からは製粉用の石臼と杵が出土したことから、台所であった可能性が高く、日常生活が営まれていた建物であることがわかります。

図 5[クリックで拡大]

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図 6[クリックで拡大]

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その南東の発掘区では地中探査の結果、小さな建築遺構が確認できていたのですが、発掘したところ遺構は確認されず、固い堆積層と礫層が確認されました。自然堆積層であり、非常に締まっていて固く発掘が困難なため、発掘区の西と南の端に試掘坑を設定し、その部分のみを掘り下げました。その結果、さらに多くの礫層が確認されました(図7、7b)。これは赤い河が氾濫して出来た層と考えています。

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図 7b[クリックで拡大]

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これらの層からは2点の貨幣が出土しました(図8)。ゼリハ・デミレル博士によるとそれらはビザンツ時代のもので、1点(BK210077)には左側に長いヒゲをはやしたヘラクレスの立像が刻まれています。さらに、この時代に特徴的な土器片も出土しています(図9)。これらの遺物、そしてこの層の上にセルジューク朝の層が位置することから赤い河の氾濫のあった時期はビザンツ時代であったと考えられます。また、これらの氾濫を示す礫層を含む堆積層の中からビザンツ時代の遺物が出土することから、これらの層の下にビザンツ時代あるいはそれ以前の居住層が存在する可能性があります。その一つが地中探査で確認された建築遺構だと考えられます。約2mの試掘では依然として建築遺構が確認できず、今回の試掘調査を終了しましたが、さらに深いところにヒッタイト時代、その前のカールム時代の層が存在する可能性は否定できません。

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図 9[クリックで拡大]

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2. 城塞区(A地区)の発掘調査

これまで継続してきた城塞区での今年の発掘は下記の3つの目的がありました。

2.1. ヒッタイト帝国時代層の調査

ヒッタイト帝国時代の建築層には火災層が存在します。この火災層からは、前15世紀から前14世紀に年代付けられる『ヒッタイトの王』に宛てたと考えられる粘土板文書が出土しています(図10)。現在、鉄器時代の城壁内側においてこの火災層の下に存在する、より古い建築層を発掘中です。

図 10[クリックで拡大]

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この建築層は破壊が激しく層も入り組んでいるため複雑で、昨年までの調査ではなかなか状況が把握できないままでしたが、本年度の精査で徐々に解明されてきました。その結果、この部分には後の鉄器時代の建物によって破壊されたヒッタイト時代の火災層の続きがわずかに残っていることが明らかとなりました(図11)。その下に存在する建物は、斜面に階段状に作られていたようです。そのため同じ高さで存在している建物でも時期が異なり斜面側はより新しい時期に属していたことが理解されました(図12)。

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図 12[クリックで拡大]

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図 13[クリックで拡大]

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2019年度に発掘した部屋R202の堆積土からは印章が1点出土しています(図13)。ボアズキョイ出土の印章を研究したドイツの考古学者ベーマーは、この種の印章は前13世紀のものであるとしましたが、彼の扱った印章は出土層位を特定できるものがないことが問題でした。最近のボアズキョイ、クシャックルの二つの遺跡の発掘調査では、年代付けが可能な層からこの種の印章が出土し、これらによって15世紀に年代付けられることが明らかとなりました。この結果、この建築層の上に存在する火災層はそれよりも新しいと見なすことが可能となりました。つまり前14世紀頃にビュクリュカレ遺跡は火災に遭っていることが確かとなったわけです。これはビュクリュカレ遺跡の歴史を考える上で非常に重要な成果の一つとなりました。



2.2. 鉄器時代城壁W11とその外側の堆積層の発掘

図 14[クリックで拡大]

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図 15[クリックで拡大]

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後期鉄器時代の城壁W11は、これまでビュクリュカレ遺跡で発掘された最も大規模な建築物です(図14)。本年度の発掘では発掘区N7W4においてようやく城壁の底面に達しました。発掘区の西側断面をみると、この城壁が作られた時に、その外側をどのように土で埋められていったのかを理解することが出来ます(図15)。つまり、補強壁といわれる城壁に直交した一列壁の石壁がどのように作られたのかを視覚的に理解することができます。この壁はまず斜面上に水平になるまで石壁を築き、その高さまで土を埋めているようです。この石壁は、この発掘区のさらに北側(写真の右側)にある別の壁まで伸びており、その裏側に土が詰められていたと考えられます。次に、その上に三角形状に土が盛られました。さらにその上にも石壁が作られていますが、この石壁は北側から南側、つまり城壁W11に向かって斜めに下がる形で作られています。このような形で壁を作り土で埋めるためには、この北側に少なくともこの壁の高さまで、埋め土を止めるための別の石壁が作られていたと考えられます。つまり、城壁W11の外側にもう一つ同じような高さの壁が存在しており、二つの壁の間を一列の石壁を作りながら土で埋めていったと考えられます。しかし地中探査結果では、W11城壁の北側にそういった大きな壁が存在していることは確認されませんでした。これまでは、城壁の外側はなだらかに傾斜して下がるように土で埋められていたと推測していたのですが、本年度の調査結果はこの推測を再考する必要があることを示しています。来年度以降この発掘区の北側を調査し、城壁の外側に埋められた土の状況を把握し、城壁の仕組みを理解しようと計画しています。

鉄器時代城壁の外側での発掘調査には、城壁を調査する以外にも重要な目的がいくつかありますが、その一つがヒッタイト時代の粘土板を発掘することです。これまでの調査から粘土板が収められていた文書庫はその後の建築活動によって破壊され、特に後期鉄器時代の城壁築造時に城壁の外側の埋め土として使われたと考えています。破壊された建物の瓦礫が持ち込まれているために、その中の遺物の出土地点というのはあまり大きな意味を持っていません。しかし、粘土板文書片はそこに刻まれた文字の形から年代付けが可能であり、さらに文書の内容はそれが書かれた時期の歴史の復元に大きな意味を持つため重要です。またここに埋土として使われた土の中からは発掘の際にカールム時代、ヒッタイト時代の多種多様な遺物が出土しています。城壁の調査が完了した後には、その下に破壊されずに残っているヒッタイト時代の建築層をさらに調査する予定です。

図 16[クリックで拡大]

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今年の発掘期間中には楔形文字粘土板文書は見つからなかったものの、発掘後の土器片の整理段階で、出土した土器片に混じって小さな粘土板片が4点確認されました(図16)。小さな破片のため残っている楔形文字からは単語一つがやっと解る程度のものですが、ロンドン大学のマーク・ウィーデン准教授によれば、詳細は実物を精査しないとわからないがそれらのうちの2つがフリ語の粘土板である可能性がある、とのことです。それも2019年に出土したフリ語粘土板よりも古いトゥドゥハリヤII/III世の時期の可能性があるそうです。これらはビュクリュカレ遺跡がフリの文化の影響があったことや、これらの粘土板を用いて宗教儀礼を執り行ったヒッタイト王家との強い結びつきをさらに裏付けてくれるものと期待しています。

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図 18[クリックで拡大]

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これらの粘土板以外にも様々な印章が押された粘土塊(印影)が多数出土しました。出土した多くの印影の中でも注目されるのが『盃持ち(Cup-bearer) 』という役職の人物の印章が押された2点の印影です。これらはアナトリア象形文字のルヴィ語が刻まれており、これもウィーデン准教授によれば、そのうちの一人は「ハットゥーシリ」という名前だそうです(図17)。これはヒッタイトの初代の王と同名であることが注目されますが、ヒッタイト王を示す『大王』の文字はありません。これと同じものが2019年にビュクリュカレ遺跡から1点出土しています。もう一つの印影にある人名はまだ完全には読めていませんが「タナリ」あるいは「タルカスナリ」の可能性があるとのことです。『盃持ち』という役職は王に最も近い高官であり、王の毒味の役割を担っていたとされます。有名な例ではヒッタイト王ムルシリI世の『盃持ち』が後にヒッタイト王となったハンティリでした。このように『盃持ち』であった高官が後に王になる例もあることが知られており、このような高官の印影がビュクリュカレ遺跡から2点も出土したということがいったい何を示しているのか、今後の更なる類例の出土と研究が待たれます。

図 19[クリックで拡大]

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発掘区N7W4においては、城壁W11の外側を城壁の底面まで掘り下げた後、城壁自体を上から外し始めました。城壁は、丸太を敷いた4つの層を挟んだ5段の石壁で構成されています(図18)。本年度は下から3段目の丸太が並べられている層まで石を取り外し、丸太の並べられた状況を記録したあと、丸太を取り外しました(図19)。今から2700年程前の丸太が腐らずに残っていたのは、本当に驚きです。この資料は今後の年輪年代測定等の分析等に使われる予定です。

2.3. 城塞区南部の発掘

図 20[クリックで拡大]

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この地区の発掘の目的は、カールム時代の宮殿建築物と同時期の層を調査し、さらにその下に存在するカールム時代以前の、前3千年紀、前期青銅器時代の文化層を調査することです。この文化層ついては城塞区最南端の地域で行われた発掘において、前期青銅器時代末の建築遺構と土器群が出土しており、大村正子隊長が発掘しているヤッスホユック遺跡の焼失した宮殿址と、さらにはメソポタミアのアッカド帝国とほぼ同時代の文化層であると考えています。この時期はアッカド王サルゴンとその孫ナラムシンがアナトリアに遠征を行ったとされる時期に相当します。アナトリアでは、それ以前のメガロン建築を特徴とした都市にかわって、この時期になると宮殿と神殿のある王国が出現しています。このように、この時期は大きな変革の時期に相当しますが、その要因の一つとして気候変動が考えられているものの、いまだ解明されておらず、ビュクリュカレ遺跡で解明の手がかりを見つけたいと考えています。

本年度は依然として後期鉄器時代の層を調査しました。その結果、カールム時代の宮殿建築を壊して作られた大型の穀物貯蔵穴が確認され、その上面にまで達しました(図20)。そのレベルでは破壊された宮殿建築の礎石が見え始めています。もう少しでカールム時代層に入ることが出来ます。

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本年度の後期鉄器時代の調査で興味深いのは、一時期に大量の厚い灰の堆積層が存在していることです(図21)。そしてこの灰の堆積層の下からは少なくとも8基の炉が確認されました(図22)。10mx10mの発掘区を3つ発掘しましたが、その範囲内に8つもの炉が作られているのはこれまで前例がありません。炉自体の形はこれまでに出土したものと大きな違いは見られず、炉床に堆積していた灰からはその炉の特殊な使用を示すような遺物は出土していません。しかし、50cmを超える灰の堆積はその時期何らかの目的のために大量の木が燃やされたことを示しており、それだけの灰を生み出す活動というと金属生産が考えられます。しかし灰層からはわずかに鉄滓が出土しているものの、その出土量はごくわずかです。

図 22[クリックで拡大]

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これだけ大量の灰が炉址の上に堆積しているのは、この地域で出た灰ではなく、どこか別の場所で火を使って出た灰がここに捨てられたと考えられます。遺跡の別の地域で大量の灰が出て、それを城塞地区の南端のこの地域に捨てた時期があったと考えるのが妥当かもしれません。それにしても炉の上に直接灰が堆積している点を考慮すると、炉が使われた時期のすぐ後に灰が堆積したと考えられます。つまり、この大量の灰は、この下から出土した多くの炉から出たものではないにせよ、同時代の他の地域で火を使って出たものがこの地域に捨てられた、つまりその時期にはこの地域は灰捨て場となっていたと考えられます。

この灰層は大型の貯蔵穴が作られた時期の上、つまりその後の時代に属します。城塞区北側部の後期鉄器時代の発掘調査では、そこに大型の貯蔵穴が作られた時期があり、その上には2度の火災の層、その後にはアケメネス朝ペルシャ時代の大型の石敷き建築遺構が確認されています。上述の灰捨て場の時期はほぼこの時期に相当すると考えられますが、北の地区ではまとまって炉が出土しておらず灰が出たと考えられる遺構が見つかっていません。また、厚い灰の堆積層も確認されていません。この厚い灰層はビュクリュカレ遺跡の後期鉄器時代を理解するための一つの鍵となるのではと考えていますが、今後さらなる調査が必要です。

3.まとめ

本年度の調査の中で、遺跡に隣接するセルジューク朝のチェシュニギル橋と同時代の集落がビュクリュカレ遺跡の南部に存在していたことを初めて確認できたことは、この地域の歴史を理解する上できわめて重要なものと考えています。橋の近くにはキャラバンサライが存在したことが18-19世紀の旅行記等に記載されており、それに伴った集落が存在していたと考えられます。今回の調査結果報告書をアンカラ文化遺産保護地域局に提出しましたが、この試掘調査が大きな意味を持ち、ビュクリュカレ遺跡も含めて将来この地域が公園の一部として保存されていくことを期待しています。


謝辞

ビュクリュカレ遺跡発掘調査は、日本学術振興会、科学研究費助成事業 (JSPS科研費 JP19H01351)の助成、千葉工業大学からの助成を受けて行われています。ここに改めて、厚く御礼を申し上げます。

(注記:本研究の成果は著者自らの見解等に基づくものであり、所属研究機関、資金配分期間及び国の見解等を反映するものではありません)

科研費
千葉工業大学




第12次ビュクリュカレ遺跡発掘調査(2021年)を開始しました

本年度の発掘調査は5月27日に開始しました。今回の大きな目的の一つは、2019年に地中探査で確認された城壁に囲まれた都市の外側の建築遺構群調査です。新たに発掘区を設置し調査を進めますが、城壁の外にはどんな建物があり、どんな役割を果たしていたのかを調査・解明することは都市の構造を理解する上で重要です。

ビュクリュカレ遺跡

ビュクリュカレ遺跡

岩山上の城塞区での調査では、2019年に前15世紀の印章が出土したヒッタイト時代文化層の発掘を行う予定です。この時代は、ヒッタイト王家により執り行われた儀礼と関連するフリ語粘土板儀礼文書の時代に相当し、ビュクリュカレ遺跡の本質に迫れるものと期待します。この調査と並行して、楔形粘土板文書片と印影の多くが出土している鉄器時代城壁外側を発掘します。ここは破壊されたヒッタイト文化層の土で埋められており、さらなる粘土板文書や遺跡の古代都市名と関連付けられるような重要な遺物の出土が期待されます。

ビュクリュカレ遺跡 発掘区

ビュクリュカレ遺跡 発掘区