ビュクリュカレ

松村 公仁 アナトリア考古学研究所研究員

第2次ビュクリュカレ遺跡発掘調査(2010年)

2010年度ビュクリュカレBüklükale遺跡第二次発掘調査は前期が6月15日から7月15日まで、後期が11月1日から12日まで行われました。(写真1)

ビュクリュカレ遺跡

写真1:ビュクリュカレ遺跡(2010)

本年度の発掘調査の目的は以下の通りです。

1.昨年度遺跡頂上部において確認されたヒッタイト帝国時代城壁の構造解明。
2.その城壁につながるヒッタイト帝国時代火災層内における建築遺構の発掘調査。

発掘調査

1.ヒッタイト帝国時代の城壁

昨年確認された巨石で構築された6.5mの高さを持つ城壁を今年度は10m x 10m のグリッドを新たに2つ設定し発掘を行いました。その結果、約4.5m掘り下げたところで城壁が用いられた最後の時期に属すると考えられる生活面が確認されました(写真2)。

城壁

写真2:城壁

その生活面上には石をコの字状に並べた遺構が確認され、その横からは帝国期に特徴的な轆轤製作された半完形のクリーム色注口土器が出土しました。この面の下には2m程にわたって薄い灰層が何枚にも重なっており、この城壁が長期間使用されたことを示しています。城壁外側の堆積土上層(オスマン時代の遺物を含んだ)からはヒッタイト帝国時代の楔形文字粘土板文書片が一点出土しました(写真3)。

粘土板文書片

写真3:粘土板文書片

粘土板の出土した層は昨年度確認されたオスマン時代の堀込み式の建築物を建てるため掘り込んだ際の廃土と考えられ、この粘土板文書はヒッタイト帝国時代の火災層に含まれていたものと推測されます。ブリティッシュ・アカデミー研究員のマーク・ウェーデン氏による解読では、用いられている字体から紀元前14世紀に年代づけられます。

2.ヒッタイト帝国時代火災層内建築遺構の発掘調査

昨年度発掘したN2E1グリッドは、後期鉄器時代の建築遺構を外し、ヒッタイト帝国時代の火災層の上面に達していましたが、本年度はこの火災層を発掘しました。日干し煉瓦の壁と、それに伴う鶏卵大の小礫が敷き詰められた上に板状に成形された木材が敷かれた床面が検出されました。木板は4面を切り取られて板状に成形されており、それを組み合わせて床に敷かれていたと考えられます(写真4)。

床面検出状況

写真4:床面検出状況

小礫は木材で枠を作った中に敷き詰められていました。このグリッドでは二つの部屋が確認され、どちらにおいてもこの小礫が敷かれていました。特に北側の部屋では小礫の敷かれた二つの区画が確認され、間に50cm程度の小礫の敷かれていない場所が通路のように残っていました。そこからは半完形の土器が出土しています。この土器は轆轤製で器面調整が施されていないヒッタイト帝国時代に特徴的な土器です。

秋に行われた2週間の調査では小礫の敷かれた部屋の続きを明らかにすることを目的としてその西側のグリッドにおいて発掘を行いました。前期調査では、第一層のオスマン時代の建築層を調査を終え、後期調査ではまずオスマン時代、鉄器時代後半に年代づけられるピット25個が出土しました。これらのピットからは後期鉄器時代(リディア、アケメネス朝ペルシャ時代)に属する土器が大量に出土しましたが、これらに混じって中期、前期鉄器時代の土器片も出土しており、昨年同様、ビュクリュカレ遺跡において未だ建築層が確認されていないこれらの時代にも居住されていたことを示しています。

鉄器時代のピット群の調査を終えると、紀元前2千年紀後半のヒッタイト帝国時代の火災層に入りました。磁気探査で確認されていた焼けた日干し煉瓦の壁で区画された二つの部屋の一部が出土しました(写真5)。

ヒッタイト帝国時代の遺構

写真5:ヒッタイト帝国時代の遺構

ガラス容器出土状況

写真6:ガラス容器出土状況

部屋の床面には拳大の礫が一面に落ちていました。上下に重なってはいないものの前期調査で確認された敷かれた礫とは異なりデコボコしており天井から落ちてきたものと考えられます。建物の機能を示す部屋に付随する施設は認められませんでしたが、床面直上に落ちた礫の間、あるいは下から、押しつぶされたかたちでガラス容器一点(写真6.7)とガラス製円形ペンダント一点(写真8)が出土しました。ヒッタイト時代のガラスについてはこれまで小片のガラス容器数点がボアズキョイ遺跡から出土しているのみで、その実態は不明のままです。

ガラス容器

写真7:ガラス容器

ビュクリュカレ遺跡出土のガラス製容器は西洋梨型の長頸壺で、胴下半部が欠けています。この器形は紀元前2千年紀後半メソポタミアのガラス容器の典型的な形態です。そこに施されたツイスト文、綾杉文、蛇行文もこの時代に特徴的な文様です。メソポタミアにおいてガラス容器の最も古いものは紀元前16世紀後半に年代づけられるものがトルコ共和国、アンタキアのテル・アチャナ遺跡から出土していますが、紀元前2千年紀後半のガラス容器が頻出しているのは北メソポタミアです。とりわけヌズィ、アッシュール、テル・アル・リマー遺跡が有名です。ミタンニ王国のヌズィ土器の分布とガラス容器の分布が類似していることから、ガラス容器製産の中心はミタンニ王国にあったという考え方が提唱されています。

ガラス製円形ペンダント

写真8:ガラス製円形ペンダント

またガラス製円形ペンダントはイシュタル神のシンボルと考えられており、類例が同じくヌズィ遺跡で出土しています。イシュタル神はヒッタイトにおいてはシャウシュガというミタンニ語の名称が用いられており、ハットゥーシリIII世の守護神にもなっています。このようなことから今回のガラス製品の出土はヒッタイトにおけるミタンニの影響の強さを示したものと言えます。

またボアズキョイ出土のヒッタイト語楔形文字粘土板文書の中にはガラス製作に関するものも出土しており、ビュクリュカレ遺跡出土のガラス容器がガラス製産の中心地であったと考えられる北メソポタミアから搬入されたものであるのか、ヒッタイトが自ら製作したものであるかを今後、化学分析等も含め研究調査して行く予定です。


第2次後期ビュクリュカレ遺跡発掘調査(2010年)を開始しました

11月1日より発掘を再開しました。今回は2週間という短期間ですが、10mx10mの発掘区でヒッタイト帝国期の火災を受けた建築遺構を発掘調査しています。クズルウルマック(赤い河)には毎朝濃い霧が立ちこめています。

後期発掘開始2010

第2次後期ビュクリュカレ遺跡発掘調査(2010)

第2次前期ビュクリュカレ遺跡発掘調査(2010年)終了

Büklükale発掘調査は7月16日まで延長して行い、今年度最大の目的であった遺丘頂上部の城壁を約4.5m掘り下げ、外の生活面を確認することが出来ました。

前期発掘終了2010

第2次前期ビュクリュカレ遺跡発掘調査(2010)

第2次前期ビュクリュカレ遺跡発掘調査(2010年)

6月15日、第2次発掘調査を開始しました。今年度は以下の3点を主体とする調査を、7月10日まで行う予定です。

 1.岩山上の高さ6.5mを超えるヒッタイト帝国期の城壁の発掘調査
 2.ヒッタイト帝国期の火災層の発掘調査
 3.下の町の南西部において、門と都市壁の続きを検出するための磁気探査

発掘開始2010

第2次ビュクリュカレ遺跡発掘調査(2010)