ビュクリュカレ

松村 公仁 アナトリア考古学研究所研究員

第4次ビュクリュカレ発掘調査(2012年)

写真1:ビュクリュカレ遺跡

写真1:ビュクリュカレ遺跡

今年の研究成果で最も重要な成果は、ビュクリュカレ遺跡(写真1)がヒッタイト帝国時代の単一層の都市ではなく、むしろそれ以前の時代においてきわめて重要な都市であったこと、そしてそれに先立つ前期青銅器時代の集落が見つかりビュクリュカレ遺跡の歴史がさらに遡ることが理解されたことです。

写真2:灰層

写真2:灰層

アッシリア商業植民地時代

ビュクリュカレ遺跡の巨石建造物の年代については、2011年度の調査で巨石壁の外側に堆積した灰層の重なりから連続した炭化資料を採取し(写真2)、それをC14炭素年代測定して明らかとなりました。その結果、この巨石壁は前2000年頃に作られ前1600年頃に放棄されました。この時代はまさにアッシリア商業植民地時代の始まりから終わりまでの時代に相当します。

写真3:前期青銅器時代の集落址

写真3:前期青銅器時代の集落址

アッシリア商業植民地時代の始まりと終わりは、実はまだよく解っていません。アッシリア商業植民地時代の始まりはアッシリア商人の活動の始まりとして解釈されていますが、メソポタミアとアナトリアの間の商業活動はそれよりずっと古くから行われていた可能性が高いのです。それはアッカド王サルゴン(前2334 – 2279年頃)がアナトリアの都市プルシュハンダの商人の要請によってアナトリアに遠征した事が書かれた文書が出土していることからも伺えます。現在のところでは、アッシリア商人によってもたらされたアッシリア語楔形文字がこれまで見つかっているアナトリア最古の文字の使用例です。その前のアッカド時代に商業活動があったならば、さらに古い文書が出土する可能性があります。今回、ビュクリュカレ遺跡では前期青銅器時代末期の集落址が確認されたことで、アッシリア商人以前の商業活動が行われた時代のアナトリアの歴史を解明出来る可能性が示されました。さらに今年度の調査ではこの巨石建築物よりさらに古い前期青銅器時代の集落址が岩山の南端部で見つかりました(写真3)。

写真4:地下室

写真4:地下室


アッカド時代に相当するアナトリアの状況については、ヤッスホユック遺跡で調査中の宮殿址と見なされる大型遺構の研究が進んでいます。両遺跡の成果を合わせることによって前期青銅器時代からヒッタイト王国成立にかけてのアナトリアの歴史に新たな光を当ててくれると期待しています。

写真5:土器出土状況

写真5:土器出土状況

写真6:出土土器

写真6:出土土器

前二千年紀初頭の建築儀礼?

今年の調査の最後には、アッシリア商業植民地時代の初頭に築造された小さな地下室が見つかりました。これは巨石建築物の床下に作られた縦横2.5 x 1.5m、深さ2mの地下室です(写真4)。この部屋の堆積土には大量の土器片が見られましたが、それを掘っていくと、大量の土器がそこに収められた状態で出土し、これらのほとんどが椀と注口土器でした(写真5)。確認できる椀の底部を数えたところ3000点を超え、注口土器は130点に上りました(写真6)。他に一点のみですが、くちばし型注口土器が見つかっています。これら大量の土器はそれらが埋められていた土が小さな玉砂利を多量に含む特殊な土であること等を考慮すると、一度にここに廃棄されたものと考えられます。つまり意図的な廃棄、埋納を示唆しています。さらにこの土器群の下には、厚さ15cm程で南側に向かって傾斜した火災層がありました。地下室の石壁にはススが付着しており、ここで火が焚かれたことを示しています。この火災層の中には焼けた動物の骨も見られます。これらの状況は、この場で動物が犠牲として捧げられた事を想起させます。火災層の下にも同様に南側に向かって傾斜した粘土質の土が石敷きの床面上に堆積していました。そしてその傾斜の先には排水口ともいえる穴が巨石壁の外に向かって開いていました。この排水口は壁の外に出ると90度東に曲がって壁沿いに走る排水溝状の遺構に続いており、石蓋がされていました(写真7)。 今年度は排水溝状の遺構の一部のみを発掘しました。

写真7:排水溝状遺構

写真7:排水溝状遺構

この地下室状の遺構の類例は、ヒッタイト王国の首都ボアズキョイの宮殿址の中の一つの建物にありました。そこでは、やはり地下室状の遺構と排水溝が備わっていました。この遺構は雨ごいの儀礼を行った場所と解釈されており、その中からはやはりくちばし型注口土器や椀が出土しています。ただしここでは火災層は存在しておらず、明らかに液体が流れたことを示す沈殿層が確認されており、継続的に液体が流され使用されたことを示しています。ボアズキョイの類似遺構との大きな違いはここにあります。ボアズキョイでは定期的にこの遺構が利用されていたのに対してビュクリュカレ遺跡のものはたった一度だけ使われたようです。ビュクリュカレ遺跡のこの地下室は、この巨石建築物が作られた時、あるいは礎石が組み上がった段階に使われた可能性が高いと思われます。その段階で、日本でいうところの棟上げの建築儀礼が行われたと考えられます。。ヒッタイトにおいて棟上げ式に相当する建築儀礼が行われたことが記された文書が存在しています。そこでは犠牲が捧げられ、ワインが捧げられたようです。ビュクリュカレ遺跡でも犠牲獣を焼いて神に捧げ、その後からお酒、たぶんワインを飲んだかもしれません。椀と注口土器はそのために用いられたものと考えられます。このような儀礼がビュクリュカレ遺跡の巨石建築築造時に行われたと考えるのはそれほど的外れではないでしょう。ここで使われた3000点を超す椀の存在はこの建築儀礼への参加者の数の多さを示しています。そしてそれだけの規模の儀礼がこの巨石建築物が造られた時、つまり前2000年頃に行われたことになります。これはつまりアッシリア商業植民地時代の初期に既にこのような大規模な儀礼が行われるような社会が誕生していたということであり、それが執り行われたビュクリュカレ遺跡は当時きわめて重要な都市であったはずです。

この重要な都市のアッシリア商業植民地時代における古代名についてはこれまで二人の研究者が異なった提案をしています。一つはトゥルミッタ、もう一つはワシュシャナという都市の可能性が指摘されています。両者ともにアッシリア商業植民地カールムが築かれていた都市であり、今後の調査で明らかにして行きたい問題です。

写真8:円筒印章

写真8:円筒印章

アッシリア商業植民地時代の末については、この時代の研究の中心的役割を担うキュルテペ遺跡においてこの時期の居住層が存在しておらず、ヒッタイト王国の成立過程が不明なまま今日に至っています。ビュクリュカレ遺跡の巨石建築が焼失した前1650-1600年頃はちょうどヒッタイトの最初の王とされるハットゥーシリI世の時代であり、彼は多くの都市を征服した事で知られています。今年の発掘ではちょうどこの時期に年代付けられるシリア様式の円筒印章が出土し(写真8)、この時代にビュクリュカレ遺跡が居住されていた事が裏付けられました。印章研究の権威であるニメット・オズキュッチュ先生に見てもらったところ、同じタイプの円筒印章は先生が発掘を開始したアッシリア商業植民地時代の都市アジェムホユック遺跡(古代名プルシュハンダと考えられる)の第3層からも出土しており、先生はここがハットゥーシリI世によって焼かれたと考えておられるとのことです。ビュクリュカレ遺跡の火災層はまさにその時代に相当し、同様にハットゥーシリI世によって焼かれた可能性を考えなくてはならない、と助言をうけました。

このように今年度の調査によって、これまでヒッタイト帝国の都市と考えていたビュクリュカレ遺跡が、実はアッシリア商業植民地時代からヒッタイト王国の成立に至る時代の歴史を語る遺跡である、ということが明らかとなりました。

写真9:印影

写真9:印影

ヒッタイト帝国時代

ビュクリュカレ遺跡のヒッタイト帝国時代の都市の存在については前14世紀に年代付けられる楔形文字粘土板文書、そして都市部の磁気探査によって前16世紀以降に年代付けられるヒッタイトに特徴的とされる箱式の都市壁の存在により裏付けられますが、岩山部においてこの時代に関する建築遺構が見つかっていませんでした。粘土板文書からは、ビュクリュカレ遺跡にヒッタイトの大王が来てこの手紙を他国に出した可能性が指摘されており、この都市が重要な都市の一つであったことが理解できます。今年度の調査では前14世紀に属する同一の女性名Tarhundawiyaを示す象形文字の刻印された、3つの異なった種類の印影が出土しており(写真9)、この時代の居住層の存在を今一度裏付けることが出来ました。さらにアッシリア商業植民地時代の巨石壁を発掘している場所で、巨石壁の最後の火災層の堆積の上に作られた、あるいは修復された壁を確認しました。これらはヒッタイト時代に属する可能性を持っています。今後の発掘調査の課題は、このヒッタイト帝国時代の建築遺構を見つけることです。

以上のように今年度の発掘調査では、ビュクリュカレ遺跡が、これまでアナトリアで解明されていない、アッシリア商業植民地時代の成立前夜からヒッタイト王国の誕生、さらにはヒッタイト帝国の西方諸国との興亡の歴史を語ってくれる唯一無二の遺跡であることが明らかとなりました。 前期青銅器時代からヒッタイト帝国時代に至る時代のアナトリアは、カマン・カレホユック遺跡の調査でも明らかになってきているように、鉄生産の技術が生まれ発展した時代です。現代文明の基盤となったこの鉄製作技術を生み出した文化がどのように成立、発展して行ったのかを理解する事は、現代文明のあり方を考える上でも多くの示唆を与えてくれるに違いありません。


第4次ビュクリュカレ遺跡発掘調査(2012年)途中経過

作業の様子

作業の様子

4月16日から行っている第4次ビュクリュカレ遺跡発掘調査も予定調査期間の半分以上が過ぎました。4月、5月は例年ならば雨が多く、作業中止を余儀なくされる日が多いのですが、今年は幸いにも夕方に雨が降ることが多く、雨で作業が中止になったのは数日のみで、順調に作業を行うことが出来ています。

イスラム時代の城壁

イスラム時代の城壁

今年度の調査では、第1層イスラム時代の城壁の調査を行い、来年度に予定している紀元前2千年紀の建築層調査の準備を進めています。

作業の様子

作業の様子

他方では、昨年度に鉄器時代の層まで調査を行った発掘区において、ヒッタイト、あるいはそれ以前の焼土層の調査を行っていますが、残念ながら鉄器時代に設けられた大型の貯蔵穴がこの焼土層を激しく破壊している状況が明らかとなってきました。ビュクリュカレ遺跡の発掘調査は6月末まで継続される予定です。


第4次ビュクリュカレ遺跡発掘調査(2012年)を開始しました

ビュクリュカレ遺跡2012

ビュクリュカレ遺跡(2012年)

2012年度ビュクリュカレ遺跡発掘調査を4月16日に開始しました。本年度は昨年発掘を開始し、後期鉄器時代の層まで堀り下げた発掘区を中心にヒッタイト帝国時代の火災層の調査を行います。発掘調査は6月末までを予定しています。

ビュクリュカレ遺跡2012

ビュクリュカレ遺跡(2012年)

作業の様子

作業の様子