ビュクリュカレ

松村 公仁 アナトリア考古学研究所研究員

第1次ビュクリュカレ遺跡発掘調査(2009年)

発掘調査は10月17日に開始し、雨と雪のため一週間作業が中断されましたが、11月15日までの約1ヶ月間行いました。本年度の発掘調査の目的は以下の通りです。

 1.遺跡頂上部における文化層の堆積状態の把握
 2.磁気探査によってLower Cityの状況の把握
 3.昨年度からの継続で地形図の完成

発掘調査

発掘に際しては、頂上部地表面に露出しているヒッタイト帝国時代のものと思われる大型の石を用いた石列とその上に堆積している土層に含まれる建築層との関係を明らかにすることによって、いくつの、そしてどの時代の建築層が存在しているのかを理解することを目的として、遺跡頂上部付近から北に向かって10mx10mのグリッドを2つ設定し発掘を開始しました。

発掘の結果、第Ⅰ層:15世紀以降のイスラム時代、第Ⅱ層:紀元前1千年紀の鉄器時代、第Ⅲ層:紀元前2千年紀のヒッタイト帝国時代、の3つの文化層が確認されました。

イスラム時代遺構09

写真1:第I層イスラム時代遺構

第Ⅰ層:イスラム時代(写真1)

この層からは斜面に2m近く掘り込んで作られた建築遺構が確認されました。この建築遺構は二期に分類され、最初の段階では一つの部屋として用いられていましたが、その際に西壁が崩れ、次の段階ではその部分を日干し煉瓦を使って修復しています。そしてさらに仕切り壁を設けその部屋が二分されたことが理解されました。この建築遺構で確認された炉は壁を方形に窪ませて作り付けられたもので、これはカマン・カレホユック遺跡では第一層に特徴的な形態です。この建築遺構はそれ以前の鉄器時代層、ヒッタイト帝国時代層を破壊して作られています。
この層の覆土中、さらには壁を外す段階で出土したパイプ片により、この建築層の年代がイスラム時代のものであることが理解されました。

鉄器時代遺構09

写真2:第II層鉄器時代遺構

第Ⅱ層:鉄器時代(写真2)

第Ⅰ層イスラム時代の建築層によってこの層の東側部分が破壊されています。残存する西側部分においてまず二つの溝状のピットが確認されていますが、このピットはこの鉄器時代の建築遺構に属する壁を壊す形で作られています。溝状の二つのピットは何の目的で掘られたものか現段階では不明です。ピットに壊された建築遺構は第Ⅰ層のものと同様斜面を利用して約50cm掘り込んで作られており、西壁が一列壁です。部屋の北東隅に馬蹄形を呈した石囲いの炉が一基出土し、炉床には土器が敷き詰められており、大量の灰の堆積が見られました。

二つのピット内からは保存状態の良い3つの青銅製フィブラが出土しています。また建築遺構の床面直上から出土した半完形のゴブレット型の灰色土器から、紀元前1千年紀後半の後期鉄器時代に属する建築遺構であると考えられます。

ヒッタイト帝国時代遺構09

写真3:第III層ヒッタイト帝国時代遺構

第Ⅲ層:ヒッタイト帝国時代(写真3)

南側の発掘区において第Ⅰ層、第Ⅱ層の建築遺構を取り除くと、一面に火災層が広がりました。東側半分が、第一層建築により1.5m近く掘り込まれており、その床面を剥ぐと多量の炭化物を含む火災層と大型の石を用いた礎石が確認されました。この礎石は地表面に露出していた大型の石列と結びつくものでした。発掘区の西側半分が第Ⅱ層建築により堆積層の上部が破壊されていますが、ここでは西側部分で確認された建築遺構の上部構造である日干し煉瓦の壁が残存していました。本年度の調査ではこの遺構の床面レベルまで掘り下げることが出来ませんでしたが、覆土中に含まれる大量の土器片はすべて紀元前2千年紀後半に年代づけられることから、この建築がヒッタイト帝国時代のものであると考えられます。

ヒッタイト帝国時代遺構09-2

写真4:第III層ヒッタイト帝国時代石列

さらに、この発掘区内北東隅で地表面に露出していた大型の石列の東側部分を掘り下げたところ、この石列が地中深く続いており、今年度の調査ではこの石列が7.5mの高さまで確認しましたが、いまだこの石列に属する生活面に達することが出来ませんでした(写真4)。この石列には高さ2mを超える大型の石も用いられており、大規模な城壁を構成していると考えられます。

磁気探査調査(写真5)

本年度の磁気探査では都市壁の確認作業を行いました。昨年までの地形測量と地形観察、表採作業を通して都市壁が築かれていたと推定される高まりを認めることが出来ており、この高まりが遺跡を取り巻いています。本年度は、この高まりに実際に城壁が存在しているかどうかを確認するために磁気探査を行いました。

磁気探査調査09

写真5:磁気探査調査

その結果、遺跡の北端部分と北西端部分において、ヒッタイト帝国の首都ボアズキョイで確認されているCasemate式の城壁が見つかり、それに付属して等間隔に設けられた塔の存在が明らかとなりました。さらに西端部分には、この高まりが途切れ窪んだ部分がありますが、その部分では同じくボアズキョイで見られる城門の形態を持つ遺構が確認されました。南西端部分では耕作時に城壁に用いられた大型の石が抜き取られて農道の脇に放置されていることからも理解されるように都市壁は破壊されているものと思われます。残念なことにその続きを明確にすることは出来ませんでした。

地形図作成

昨年度、遺跡の3分の2の地域の地形図が作成されました。今年度はさらに残りの3分の1の地域の地形図を作成し、この作業を完了しました。

おわりに

今シーズンの成果の一つは、調査目的であるヒッタイト帝国の都市遺構の存在を明らかにすることが出来たことです。来年度以降この都市の実態を明らかにするために調査計画を作成し、実施していく予定です。