ビュクリュカレ

松村 公仁 アナトリア考古学研究所研究員

第6次ビュクリュカレ発掘調査(2014年)

「大王タバルナの印、これを冒すもの死すなり」

写真1

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第6次ビュクリュカレ遺跡発掘調査(2014年)を終了しました。第6次ビュクリュカレ遺跡発掘調査は、4月7日(月)から5月31日(土)まで発掘調査を行い、6月の第一週は文化観光省主催の発掘シンポジウムのため一時中断し、その後遺構図面作成、写真撮影等の作業を行い、6月13日に出土遺物を博物館に収めて今年度の発掘を終了しました。(写真1)

写真2

写真2

今シーズンの発掘調査の目的は、昨年度紀元前14世紀のヒッタイト粘土板文書片が出土した焼土層の続きを発掘調査することでした。(写真2)この焼土層は発掘5年目にしてようやく見つかった最初のヒッタイト帝国の文化層です。しかし発掘を進めると、まさにその部分を後期鉄器時代の堀込み式住居が破壊しており、焼土層はごく一部しか残っていませんでした。(写真3)そのため今年度はヒッタイト帝国時代の焼土層の調査をほとんど行えませんでした。しかし、鉄器時代の住居址を外し調査を進めると、その下からさらに別の焼土層が確認されました。(写真4)この焼土層はヒッタイト帝国時代よりも古いことは明らかです。今年はこの焼土層の調査を行えませんでしたが、この焼土層とヒッタイト帝国時代の焼土層との間に少なくとも一つ、もしかすると二つの建築層が存在していることが明らかとなりました。これらの建築層は古ヒッタイト時代の文化層である可能性が高いと考えています。今年の発掘期間中には表土層と第1層の発掘において、典型的な古ヒッタイト時代の遺物である雄牛のリュトンの破片が出土しており(写真5)、ビュクリュカレ遺跡ではこれまで確認されていなかった古ヒッタイト時代の集落が存在した可能性が非常に高くなりました。こうした結果を総合すると、ビュクリュカレ遺跡はアッシリア商業植民地時代からヒッタイト帝国時代へと、途切れることなく居住されていたことが理解されます。

写真3

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写真4

写真4

写真5

写真5

ビュクリュカレ遺跡の発掘には、私が授業を持っているアーヒー・エヴラン大学考古学専攻の学生が参加していますが、今年の発掘後半にはビュクリュカレ遺跡出土の紀元前2千年紀の文字資料を研究しているロンドン大学マーク・ウィーデン博士と彼の授業を受講した古代史専攻の学生4名も参加しました。ちょうどマークさんが研究所で研究を進めている時期、発掘作業終了の3日前に当たる5月28日、鉄器時代の城壁をはずす作業中に楔形文字が彫られた印影が出土しました。その日はクルッカレ県副知事の訪問があり、遺跡の説明をしているところでした。そこに発掘グループリーダーの1人であるジンヌリが手に何かを持って、笑いをこらえるようにして僕に向かって小走りに近づいて来ました。これは何かを見つけたんだ、と感じました。彼は「松村べイの探していたのはこれじゃないの?」と印影を差し出しました。(写真6)それがボアズキョイの博物館に展示されてあるのと同じ楔形文字が書かれた印影だというのは理解できました。そこですぐに大村さんに電話し、携帯で写真も送ったところ、大村さんがマークさんを連れて現場に来られました。マークさんに印影を渡すと、彼はすぐにそれを解読し、「タバルナ印章」の印影であると説明してくれました。

写真6

写真6

印影の大きさは径3.8-4.0cm、厚さ1.0cmで、印面には「大王タバルナの印、これを冒すものは死すなり」という銘文が刻まれていました。これはヒッタイトの王が代々用いていた典型的な印章で、「タバルナ印章」と呼ばれているものです。タバルナとはヒッタイトの王が代々用いてきた王の称号で、王家の祖先の名前とも考えられています。時期によって王の名が記されていたりしますが、今回出土したものには王名が入っていません。

このようなタイプは中期ヒッタイト時代に用いられた「匿名タバルナ印章(anonymous Tabarna Seal)」と呼ばれるものです。15世紀から14世紀初頭にかけてのものと言えますが、王名まで特定することは出来ません。これまでのところ中央アナトリアを中心にこのタバルナ印章は20点弱見つかっていますが、そのうちの14点がヒッタイトの首都ボアズキョイで出土しています。

ボアズキョイ以外では、タルスス、イナンドゥックテペ、マシャットホユック、オルタキョイ、カヤルプナルの遺跡で発見されており、そのうち「匿名タバルナ印章anonymous Tabarna Seal」は15点程出土していますが、その中の10点がボアズキョイで出土しています。残りはタルスス、イナンドゥックとマシャットホユックから出土しています。最近になってオルタキョイとカヤルプナルで出土しました。このようにヒッタイトの首都ボアズキョイでその大部分が出土しており、それ以外の遺跡では非常に稀です。

このようなヒッタイト王の印影がビュクリュカレ遺跡で出土したということは、いったいどんな意味を持っているのでしょうか?ヒッタイト王の印が出土したということは、ヒッタイト王と直接連絡を取り合っていたということ、つまり王と直結していた都市であったことを示しています。昨年出土した粘土板文書には、そこに用いられている「(私の)太陽」という単語から、ヒッタイト王へ送られた手紙である可能性が高く、ヒッタイト王がビュクリュカレ遺跡を訪れ、滞在したことを示唆しています。

これまでに見つかっている「タバルナ印章」のほとんどは土地贈与文書に押されたものです。土地贈与文書に押された印に「これを冒すもの死すなり」と書かれていた訳ですから、「文書に書かれている契約書を遵守せよ」との意味合いがあったと考えられます。今回のタバルナの印は封泥に押されたものです。印鑑の押されたもの、という意味で「印影」と呼んでいます。しかし、機能的な意味では今回の出土品は「封印」と呼んで良いと思います。というのは、印影の押された面の反対側に紐に粘土を押しつけてできる圧痕が見られるからです。何かを紐で結び、その紐に封泥が付けられ、封印されたと考えられます。このような封泥に「これを冒すもの死すなり」の一文が書かれている王の印章で封印したものが、いったい何だったのか現段階では不明です。このような封印に押された「タバルナ印章」は非常に稀で、これまでにマシャットホユックでのみ出土しています。2010年にビュクリュカレ遺跡で出土したヒッタイト粘土板についてもマシャットホユック出土のものと類似していると指摘されていました。このマシャットホユック遺跡は、ボアズキョイの北に位置し、ヒッタイトと敵対する黒海沿岸部を拠点とするカシュガ民族と対峙する地点にあった遺跡です。ビュクリュカレ遺跡は西アナトリアの巨大勢力アルザワに対峙する地点の遺跡と言えます。それ故ビュクリュカレ遺跡の都市自体もマシャットホユック遺跡と同等の機能を持っていた可能性が高いと言えます。

マシャットホユック遺跡では116点の粘土板が出土しており、ボアズキョイ(約30,000点)、オルタキョイ(約3000点)についで三番目の重要な粘土板出土遺跡です。このことから推測すると、ビュクリュカレ遺跡はマシャットホユック遺跡と同等の粘土板文書庫が存在した可能性が高いと考えられます。マシャットホユック遺跡では粘土板文書の大部分が手紙文書です。現在調査されているヒッタイトの遺跡の多くが宗教都市であり、そこで出土する文書の多くが宗教、儀礼文書なのに対して手紙文書の場合、これまでに知られていない歴史的出来事に関連する可能性があります。ビュクリュカレ遺跡の立地を考慮すると、ヒッタイトと西アナトリアのアルザワを中心とした国々との外交史に新たな資料を提供してくれるのではと益々期待が高まってきました。(7月29日)


第6次ビュクリュカレ遺跡発掘調査(2014年)途中経過

発掘区遠景

発掘区遠景

今年のビュクリュカレ遺跡発掘調査も既に終盤にさしかかっています。

4月中は寒い日が続き、5月に入ると今度は雨にたたられ、途中で作業を打ち切らなければならない日があったり、まったく作業出来ない日も二日ありました。

また毎年のことですが何故かビュクリュカレ遺跡では午後二時頃に雨が降り始めます。突然豪雨となり避難する前に皆がずぶ濡れになってしまったりもします。道は泥で滑りやすくなり、先日はアーヒー・エヴラン大学学生の1人が転んで全身泥だらけになってしまいました。また雨が降った翌日には水たまりが出来て、床面やピットの底を発掘するような細かな作業が出来ません。そんな時には新しい発掘区を設定して多少土が濡れていても調査に影響がない表土剥ぎ作業を行ったりして少しでも発掘を進めるように工夫しています。

天気のせいだけではありませんが、残念ながら今年の発掘の成果はなかなか上がっていません。というのも、今年度の発掘調査の第一目的であったヒッタイト帝 国時代の焼土層の発掘が予想通りに進んでいないからです。昨年度粘土板が見つかった焼土層の続きを調査するため、その隣の発掘区の調査を進めていますが、ちょうどその場所に半地下式の後期鉄器時代の住居が作られていました。その半地下式の部屋は焼土層を掘り込んで作られており、発掘区内の焼土層の大半が破壊されてしまっていたのです。今週ようやく鉄器時代の層を掘り終わり、ごく僅かに残っているヒッタイト帝国時代の焼土層をこれから調査します。

別の発掘区ではアッシリア植民地時代末の焼土層の発掘を進めています。そこでは貯蔵庫が見つかり貯蔵用の大甕が八点埋め込まれています。現在それらを一つ 一つ発掘していますが、今日も中から炭化した小麦が出土しました。食料を貯蔵していたようです。

アッシリア植民地時代末の遺構

アッシリア植民地時代末の遺構

貯蔵用の大甕

貯蔵用の大甕

地中探査作業

地中探査作業

また今年も日本から参加してくれた隊員による遺跡の地中探査が行われ、下の町の構造を理解するための最適な探査方法確立に努めてくれました。(5月22日)


第6次ビュクリュカレ遺跡発掘調査(2014年)を開始しました

保護屋根取り外し作業

保護屋根取り外し作業

ビュクリュカレ遺跡2014

ビュクリュカレ遺跡(2014年)

第6次ビュクリュカレ遺跡発掘調査は、4月7日(月)に開始しました。まず二日間をかけて保護屋根と保護シートの取り外しを行い、発掘区のクリーニング後に発掘を開始しました。開始直後の天気は非常に寒く、冬用のオーバーを着て震えながら作業をしていましたが、二週目半ばに入ると朝は依然として寒いものの日中は急に気温が高くなり、半袖のTシャツで作業する労働者も出てきて飲み水の消費量も途端に増えました。

クリーニング作業

クリーニング作業

今シーズンの発掘調査では、紀元前14世紀のヒッタイト粘土板文書片が出土した焼土層を昨年に引き続き発掘調査します。この焼土層は発掘5年目にしてようやく見つかった最初のヒッタイト帝国の文化層です。

発掘作業の様子

発掘作業の様子

ビュクリュカレ遺跡の調査では遺跡の対岸に位置するキョプル・キョイ(トルコ語で「橋の村」の意)から多くの労働者が参加していますが、その多くはこの村 出身で現在は近くの町ケスキンKeskinに住んでいるアブダルラルといわれる人たちです。彼らの本職は結婚式などで伝統的な音楽を演奏することです。若く力のある労働者なのはいいのですが、結婚式シーズンの5月の終わり頃になるとあちこちから声がかかり週末毎に発掘に参加できなくなるのが困りものです。明るい性格の彼らの中に、アーヒー・エヴラン大学考古学科の学生も加わり活気あふれる作業が続いています。(4月21日)