ビュクリュカレ

松村 公仁 アナトリア考古学研究所研究員

第5次ビュクリュカレ発掘調査(2013年)

図版1

図版1

今年度の発掘調査も事故もなく無事終えることが出来ました(図版1)。

アナトリアの春は、暑くもなく寒くもなく、発掘作業をするには最適の暖かさですが、雨が多いのが玉に瑕です。幸い今年度の調査はあまり雨に影響されず、順調に作業を進めることが出来ました。調査は4月8日から6月15日の期間に行われ、査察官としてクルシェヒール博物館よりスレイマン・トゥンチュ氏が派遣されました。

1.今年度ビュクリュカレ遺跡発掘調査の目的

今年度のビュクリュカレ遺跡発掘調査における最大の目的は、ヒッタイト帝国時代の文化層を見つけることでした。2010年の調査において巨石建築遺構の外側から紀元前14世紀に年代づけられるヒッタイトの楔形粘土板文書片が出土しました。この遺物の発見はヒッタイト帝国時代にビュクリュカレ遺跡で居住されたことを我々に確信させました。しかし発掘開始から2011年までの調査ではヒッタイト帝国時代の文化層を見つけることが出来ませんでした。2012年度の調査では、岩丘の北側部分でのオスマン時代の城壁を発掘中に、紀元前14世紀に年代づけられるルヴィ語象形文字で「Tarhundawiya」という女性の名前が刻印された3つの異なった印影が出土しました。この結果からオスマン時代の建築遺構によってヒッタイト時代の文化層が破壊されたのではないかと考えました。それ故、岩丘の北側部分にヒッタイト帝国時代の文化層が存在した可能性が高いと判断し、今年度は岩丘の中心部から北に向かって紀元前2千年紀の文化層を追って発掘を進めることにしました。

図版2

図版2

もう一つ今年度の新たな試みとして南側テラス部の発掘を行いました。岩丘の南側に二つのテラスが広がっていますが、より南の低いテラスの地表面には、紀元前2千年紀の大型の建築遺構に属すると考えられる礎石が露出しています。2012年度の地中探査では良好な結果が得られず、これらの礎石がいったいどんな遺構の一部であるのか理解できませんでした。そこでこの地域に発掘区を設定し(S10W15, S11W15, S12W15, S13W15)試掘を行い、このテラス部の居住の歴史理解に努めました。

2.ヒッタイト帝国時代層の調査

岩丘北端部にヒッタイト帝国期の文化層が存在した可能性があることから、今年度は昨年度第一層オスマン時代の建築層を調査したN4W2区において、その建築遺構を取り外し、その下にある文化層の発掘を行いました(図版2)。

図版3

図版3

図版4

図版4


オスマン時代層の下には後期鉄器時代又はヘレニズム時代に属する建築遺構が存在しましたが、さらにそれを取り除くと焼土層が現れました。この焼土層はこれまでの発掘で確認されていたアッシリア植民地時代の焼土層とは結びつかず、それよりも新しく、これまでに確認されていない焼土層の可能性が高いと思われました。明確な層序関係は来年度この発掘区の南のN3W2を発掘することで明らかに出来ると考えています(図版3)。 新しく確認された焼土層はかなりの部分がオスマン時代、後期鉄器時代の建築によって破壊されており、発掘区の北東部分において、堆積が北東に向かって下っている部分のみ残っていました。この焼土層の発掘を開始するとまもなく粘土板文書の破片が一点出土しました(図版4)。これはちょうど礎石W228上に堆積していた焼土層の中から出土しました。この粘土板をロンドン大学マーク・ウェーデン博士に解読してもらったところ、文字部分が縦に細く残っているため内容を理解するのは困難なものの紀元前14世紀と年代づけられ、解読できた文字の中に「(私の)太陽」という単語が見つかりました。この「私の太陽」という言葉はヒッタイト語において一般に神、あるいはヒッタイトの大王を表現するときに用いられるそうです。このことからこの粘土板文書はある高官から(ヒッタイト王に書簡を書けるのは極限られた高官であったと考えられます)ヒッタイトの大王に宛てた手紙である可能性が高いとのことです。そしてヒッタイトの大王に宛てた手紙がここビュクリュカレ遺跡で出土したということは、ヒッタイトの大王がビュクリュカレ遺跡にやって来て、ある期間滞在したことを示唆しています。2010年に出土した粘土板もヒッタイトの大王と西アナトリアにあった国の王との間の書簡である可能性が高いことも考慮すると、ビュクリュカレ遺跡はヒッタイト帝国時代にヒッタイト大王も滞在した重要な都市の一つであったことが理解されます。

図版5

図版5

そしてこの火災層は、この紀元前14世紀の粘土板文書が出土したことからそれと同時期か、それよりも新しい時期の層であるはずです。つまりこの焼土層はアッシリア植民地時代のものではあり得ないことになります。この層の上には後期鉄器時代の層が存在しており、なおかつ焼土層の中からは紀元前2千年紀の土器しか見られないことを考慮すると、この焼土層がヒッタイト帝国時代に属する可能性は非常に高いと言えます。このようにビュクリュカレ遺跡では発掘を開始して4年目でようやく目的のヒッタイト帝国時代の文化層を見つけることが出来たと考えています。来年度の発掘調査ではこの火災層を追って、ここから北に向かって発掘を行っていきたいと計画しています。

3.アッシリア商業植民地時代の調査

これまでの調査では、この時期に属する巨石建築遺構が確認されています。この建築遺構には二つの時期があり、それぞれがアッシリア商業植民地時代、キュルテペ遺跡カールムのII期、Ib期に相当することがC14年代測定結果から明らかとなっています。

図版6

図版6

N0W0発掘区:発掘区の大部分が後期鉄器時代の大型穀物貯蔵穴によって破壊されており、西側のごく僅かな部分においてアッシリア商業植民地時代に属する巨石建築遺構後期末の焼土層が見つかりました。この部分ではW100、W151とW163で構成された部屋の一部が発掘され、W100の壁際に沿って床面に据えられた大型貯蔵壺の下部が三つ原位置で出土しました。さらにW151の壁際には大型貯蔵壺が据えられていたことを示す大型貯蔵壺の底部の形をした窪みが床面で確認されました(図版5)。貯蔵壺の中からは食用に貯蔵されていたと考えられる炭化したライ麦が出土しました(図版6)。一年草であるライ麦の炭化穀物をC14年代測定してもらうことで、この焼土層の年代がより確実なものになると期待しています。

図版7

図版7

図版8

図版8

後期鉄器時代の貯蔵穴で破壊された部分では、貯蔵穴底部の白色層を取って掘り下げ、その下にある文化層の調査を行いました。この部分ではアッシリア商業植民地時代初期に作られた巨石建築遺構前期の礎石が現れました(図版7)。その結果巨石建築遺構の南端の壁W53はW56とでコーナーを形成しているのではなく、さらに西に続いていたことが理解されました。

さらに西の部分では、ピット状の堆積が見つかり、そこから出土した土器は前期青銅器時代末期に属する物でした(図版8)。このことからアッシリア植民地時代の巨石建築物は前期青銅器時代末期の集落の上に作られたことが理解できました。

図版9

図版9

図版10

図版10

N1W0発掘区:今年度は第I層オスマン時代、第II層後期鉄器時代の建築層の調査を進め、第III層アッシリア商業植民地時代後期末の焼土層が現れたところで調査を終えました。来年度はこの焼土層の発掘に入ります。すでに大型の貯蔵用壺が顔を出しています(図版9)。

N0E1発掘区:この発掘区では巨石建築遺構の南東隅の部分を調査しています。前年度の発掘では地下室R54を発掘し、大量の土器が出土しました。今年度はその東側の礎石で区切られた二つの区画を調査しました(図版10)。R61と名付けたR58のすぐ東の区画は土で埋められており、礎石の石も面を持っておらず、何も遺物が出土しませんでした。しかしR62は堆積土の上部から焼土層が顔を出しており、R61とは大きく異なっていました。ただしR62の南側部分にはこの焼土層を壊して、年代の明確でないピット(穴)が掘られていました。ピットを掘り、焼土層の発掘に入ると炭化した太い木材片等が出土してきました。さらに掘り進むと、多量の土器片が出土し始めました。それらに混じって印影(印章が押された粘土塊)が見つかりました。これには有翼の怪獣グリフォンが描かれているようです(図版11)。このようなモティーフはキュルテペ遺跡Ib層併行期で出土しており、この地下室がその時期に属している可能性を示唆しています。

図版11

図版11

図版12

図版12

図版13

図版13

焼土層の下からはさらに大量の土器が出土し始めました(図版12)。これらの土器は地下室の北壁際中央部が高まるような形で堆積していることから北側から投げ込まれたものと考えています。土器はここでも杯が最も多く、ティーポットも含まれています。ただしR54に比べると器種が豊富なようです。出土した土器片の底部を数えたところ、R54とほぼ同じ約三千点の杯が出土しました。R54と異なるのは、これら大量の土器に混じって特殊な遺物が出土したことです。その一つが乳白色の大理石で作られたヒョウの頭部像です(図版13)。目には金製の環の中にアフガニスタンでのみ採取される青色の石ラピス・ラズリが、斑点部にはエジプシャン・ブルーと呼ばれる青色の物質が象眼されています。さらに首の部分には何かと接合するためと思われる青銅塊が埋め込まれています。キュルテペ遺跡出土の同様の動物頭部像は王笏の頭部と考えられており、用いられている特殊な材料からもある種の権力を象徴するものであったのではと思われます。また精巧な水晶製小型容器も出土しています(図版14)。もっとも興味深いものとしては黒曜石片とダチョウの卵片が挙げられます(図版15)。黒曜石片は、ヒッタイトの首都ハットゥーシャの王宮内にある建物Cの排水路を持つ石壁の地下室内でも出土しています。この建物は雨乞いの儀礼が行われたと考えられており、この地下室内からはくちばし型の注口土器、大量の杯とともに、大量の貝殻、それに黒曜石片がまとまって出土しています。紀元前2千年紀の儀礼では黒曜石片が何らかの意味を持って使われていたと考えられます。ダチョウの卵片はたぶん容器として用いられたものと考えられます。同様のダチョウの卵を用いた容器はメソポタミアのウル遺跡において紀元前2600-2200年に年代づけられる16の王墓を含む2000を超える墓が見つかり、そこから数多く出土したことが報告されています。その中でも代表的なものがイギリス、大英博物館に所蔵されていますが、口縁部がラピス・ラズリで装飾されています。ダチョウは古代広く中近東に生息しており、アラビア半島では20世紀初頭まで生息していました。また新アッシリア帝国の王によってダチョウが狩猟されていたようです。ダチョウの卵を用いた容器はアナトリアではこれまで類例がありません。またビュクリュカレ遺跡においてもこの地下室の内外から一定量の貝殻が出土しています。牡蠣のような2枚貝で、淡水産では見られないような種類のため、これらも儀礼に関連する何らかの意義を持ったものではないかと考えています。

図版14

図版14

図版15

図版15

地下室R62は岩盤上に作られており、底には一部礫が敷かれていたものの、明確な床面は出土しませんでした。南壁にはR54同様に坑道が開けられており、たぶんW83の南側で見つかっている排水溝につながっていると考えています。しかしここでも大量の液体が流れたことを示す堆積物は確認できませんでした。このように今年度発掘された地下室R62は多くの点で昨年度発掘された地下室R54と共通した特徴を持っています。それ故両者はほぼ同じ機能を持っており、現時点ではある種の建築儀礼と関連する施設と考えています。これら二つの地下室が時代的にどんな関係にあるのかは、今後のC14年代測定の結果で明確に出来ると期待していますが、巨石建築遺構が二度作られていることから、各地下室がそれぞれの時期に属している可能性が高いのではないかと考えています。 

4.南第2テラス部の調査

今年度新たに南第2テラス部をB区とし発掘を行いました。B区での調査の目的は地表面に露呈し、紀元前2千年紀のものと推定される大型の礎石が構成していた大型建築遺構の性格、年代を理解することです。今年度は4つの発掘区を設定し調査を行いました(図版2)。

発掘の結果、3つの異なる時期に属する建築遺構が存在していることが理解されました(図版16)。壁W3とW4で構成される部屋R1はW6,W7の礎石を壊す形で作られていることから、それらよりも新しいと考えられます。壁W2とW17で構成される部屋R5は壁W7、W8よりも高く残っていることから、これらより新しいと考えられます。部屋R1とR5の関係は、部屋R5がW5が南東に向かってより低く下がっており、壁W5は部屋R1よりも低く下がって行っていることから部屋R1の方が新しいと考えられます。つまり部屋R1が最も新しく、次にR5、最も古いのが壁W7, W8で構成される建築遺構ということになります。

図版16

図版16

残念ながらこの地域では床面下の礎石部分のみが残存している状態であり、この建築遺構に属する床面直上の遺物は存在しません。それ故これらの遺構の年代を決定することは困難です。ただし覆土の中から出土する土器片は、そのほとんどが紀元前2千年紀のものです。このことからこれら3つの時期の建築遺構は紀元前2千年紀のものと考えられます。

部屋R5の年代に関しては壁W2の南側部分で厚い灰の堆積が確認されました。この灰層はW2の北側では見られない物です。壁W2は南側に面を持っていることからテラス状に作られた礎石の可能性が高いと考えており、内側に当たるW2の北側は土で埋められていたと考えています。(W2を作る際に、W2の作られた部分の土をを垂直に削り、そこに礎石を並べ、削り取った土の面と南側の大型の石との間に礫を詰めたと考えられます。この場合より古い壁W6、W7は壊されないまま土の中に残ることになります)。こうした壁W2の構造から推測すると、W2の礎石の外側に堆積している灰層はW2が構成する建築物の外側に堆積したものであり、この遺構が使われた時代に堆積した可能性が高いと言えます。この灰層からは大量の土器片が出土しています。それらの中にはヒッタイト帝国時代に特徴的な、光沢を持つほどに磨研されたクリーム色土器で作られ、円形胴部を持つ水筒型土器の破片等が見られます。このことからW2が構成していた遺構は帝国期の建築物であろうと考えています。従ってW2よりも古いW6,W7で構成される建築遺構はアッシリア植民地時代のものと推測されます。

今後テラス上に存在する遺構の調査を進め、地中探査と組み合わせて都市構造の解明に努めたいと考えています。

5. まとめ

今年度の調査では、ビュクリュカレ遺跡の最大の目的であるヒッタイト帝国時代の文化層をようやく確認できました。来年度の調査ではこの文化層の調査を進めていく予定です。またアッシリア商業植民地時代の巨石建築遺構の調査では再び大量の土器とともに貴重な遺物が出土し、この時代に関しても当遺跡がきわめて重要な資料を提供する遺跡であり、当時の儀礼慣習に関して多くの新たな知見を提供してくれるであろうことが改めて理解されました。


第5次ビュクリュカレ遺跡発掘調査(2013年)を開始しました

第5次ビュクリュカレ遺跡の発掘調査は、4月8日(月)に開始しました。中央アナトリアの4月初旬は、雨が多く発掘開始当初は大分手こずってしまいました。3日間も雨に祟られ作業を中止せざるをえない時もありましたが、4月も後半に入り快晴の日が続き、調査も順調に進んでいます。今シーズンは、昨シーズン確認した紀元前2千年紀の巨石大形建築遺構の解明に重点を置いて発掘を行っています。これまでの調査で、巨石大形建築遺構の最後の火災層(紀元前1600年頃)に年代付けられる石壁の側に四つの貯蔵用甕の底部を確認、その中から炭化した穀物を採集することができました。それらの穀物から当時の食生活の一部を読み取ることができると同時に、炭化穀物を放射性炭素年代測定法によって計測することにより、巨石大形建築遺構の正確な年代を導きだせるのではないかと期待しています。発掘調査は、アナトリア考古学研究所のスタッフ、クルシェヒル県、アーヒ・エヴラン大学文学部考古学科の学生を中心として進めています。(5月2日)

作業の様子

作業の様子

ビュクリュカレ遺跡2013

ビュクリュカレ遺跡(2013年)