カマン・カレホユック

大村 幸弘 アナトリア考古学研究所長

第30次カマン・カレホユック発掘調査(2015年)

写真1:カマン・カレホユック遺跡[クリックで拡大]

写真1:カマン・カレホユック遺跡[クリックで拡大]

はじめに

第30次カマン・カレホユック発掘調査は、6月28日に開始し、9月5日まで行いました(写真1)。第30次発掘調査の査察官として、クルシェヒル考古学博物館の学芸員・サドゥルラフ・アリマフムトオウルラルさんが派遣されました(写真2)。また、今回の発掘調査には、日本、トルコ、欧米から多くの研究者、学生が参加しました(写真3)。

写真2:サドゥルラフ・アリマフムトオウルラルさん(右)[クリックで拡大]

写真2:サドゥルラフさん(右)[クリックで拡大]

写真3:参加隊員[クリックで拡大]

写真3:参加隊員[クリックで拡大]

調査目的

第30次カマン・カレホユック発掘調査の目的は、2点ありました。第1点目は1986年以来北区で継続して行ってきている『文化編年の構築』です(写真4)。特に今シーズンは、III〜VII区で前期青銅器時代の建築層が明確に幾つ存在するかを確認することでした。また、南区ではII層の鉄器時代、III層の前2千年紀の文化層の調査に焦点を合わせましたが、IId層直下の建築遺構が前2千年紀に入るものか否かについて調査を進めました(写真5)。

写真4:北区[クリックで拡大]

写真4:北区[クリックで拡大]

写真5:南区[クリックで拡大]

写真5:南区[クリックで拡大]

発掘区

北区では、III区〜VII区、XVIII〜XX区の8区、南区では、XXXII, XXXIV, LII, LVI区、I、III、XXI、XXVIII、XXX区の9区で発掘調査を行いました(図1)。

図1:2015年発掘区[クリックで拡大]

図1:2015年発掘区[クリックで拡大]

発掘調査経過

6月下旬に昨年架けて置いた北区の保護屋根、そして南区のジオテックの取り外しを行なうと同時に、発掘予定区のクリーニングを開始しました。保護屋根を架けていたこともあり、昨年出土した建築遺構の保存状態は極めて良好であり、この保護屋根が遺跡保存違は有効であることが今回も再認識しました。南区では、昨年度からジオテックを使用しております。これは現在トルコの多くの発掘現場では遺構の保存用として多用されていますが、今回取り外した際に予想以上に遺構、発掘区断面の状態が良好であったことが何よりでした。ただ、ジオテックを架けていなかった建築遺構の床面の部分が多少破損していたこともあり、次年度はジオテックによって全面的に覆うことによって保存をする必要がありそうです。

写真6:博物館学フィールドコース[クリックで拡大]

写真6:博物館学フィールドコース
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北区、南区のクリーニングは、保護屋根、ジオテックの効果と云うことでしょうか。二日間で終わることができました。作業を手伝う60名余りの労働者を4グループに分けた後、7月初旬に北区、南区の発掘調査は本格化しました。

発掘調査は、7月初旬から8月末まで行ない、8月には考古学フィールドコース、そして9月には博物館学フィールドコースが行われました。考古学フィールドコースには、日本の大学の学生が7名、また博物館学フィールドコースには22名参加しました(写真6)。

発掘調査で出土した遺物のうち48点を査察官のサドゥルラフさんとともに選別し、9月9日、それらをカマン・カレホユック考古学博物館に納めすべての作業を無事終了しました。

北区の建築遺構

既述したように、北区ではIII〜VII区、XVIII〜XX区の2発掘区で調査を行いました。XVIII〜XX区では後期鉄器時代、中期鉄器時代、III〜VII区では前期青銅器時代の文化層に焦点を合わせる形で調査は進めました。上層から順に鉄器時代、前期青銅器時代で説明します。

1. 鉄器時代—XVIII〜XX区
写真7:北区 XIX〜XX区[クリックで拡大]

写真7:北区 XIX〜XX区
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写真8:中期鉄器時代の彩文土器片[クリックで拡大]

写真8:中期鉄器時代の彩文土器片
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XVIII〜XX区では、後期鉄器時代の建築遺構、ピット群、R451、R455、R427、R449を掘り込む形でR435等が見つかっています(写真7)。R449の床面を検出中にR449のW41の側でR449直下のものと考えられる石壁と同時に中期鉄器時代の彩文土器片が出土しています(写真8)。R449、R451、R427を取り外した段階で中期鉄器時代の建築遺構が検出される可能性があります。

XVIII〜XIX区では、後期鉄器時代のピットが数多く確認されていますが、そのピット群によって破壊されており、見つかっている幾つかの石壁からはほとんど建築遺構のプランを示すものではありませんでした。ただ、これらのピット群、石壁、つまり建築遺構を発掘中に中期鉄器時代の彩文土器片が幾つも確認されています。これはピット群などを取り外した際には中期鉄器時代の建築遺構が出土する可能性は十分に考えられます。

写真9:北区 XVIII区 R453[クリックで拡大]

写真9:北区 XVIII区 R453[クリックで拡大]

XVIII区では、R453が見つかっています(写真9)。このR453はかなり強い火災を受けています。その火災は北側へと伸びていることが判りました。この火災を受けているR453内からはIId層、つまり前期鉄器時代の土器片が出土しています(写真10)。このXVIII区の西側にはIV区が位置しています。このIV区では、以前の発掘調査でR453とほぼ同じ層位から前期鉄器時代の建築遺構が見つかっています。つまり、今シーズン出土したR453も、IV区の建築遺構と同様、前期鉄器時代に年代付けられると考えられます。

写真10:前期鉄器時代の土器片[クリックで拡大]

写真10:前期鉄器時代の土器片[クリックで拡大]

XVIII〜XX区の層序を考えますと、XX区にはIIa層—後期鉄器時代、IIc層—中期鉄器時代、XVIII区ではIId層—前期鉄器時代と3層が積み重なっていることがほぼ読みとれると思いますが、IIc層の建築遺構が半地下式のものか、あるいは平地式のものかによっても層序に多少のずれが生じる可能性はあります。

2. 前期青銅器時代-III〜VII区

III〜VII区では、前3千年紀の前期青銅器時代の建築遺構、ピット群の調査を行いました(写真11)。これらの前期青銅器時代の直上にはIIIc層—アッシリア商業植民地時代の建築遺構が分厚く乗っていました。それらを丁寧に取り外しながらここ数年前期青銅器時代の文化層の調査を行ってきております。

写真11:北区 V〜VII区 ピット群[クリックで拡大]

写真11:北区 V〜VII区 ピット群
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写真12:北区 IV区[クリックで拡大]

写真12:北区 IV区
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前年度のIV区の調査で、R448を確認しました。このR448内からは前期青銅器時代の典型的な土器、移動式炉、建築遺構の中央部から径1メートルを超す円形炉が見つかっています。このR448は、強い火災を受けておりその痕跡はIV区全体を覆っていました(写真12)。

R448の北側には以前の調査でR326が見つかっておりましたが、この建築遺構の壁体を観察する限り、壁体の脆弱さから云いましてもR326を部屋として考えることは極めて難しいことが今回の調査で明らかとなりました。そのため今シーズンは、R326を形作っていたW31、W32を取り外す作業を行いました。

写真13:北区 IV区 R450[クリックで拡大]

写真13:北区 IV区 R450
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R326の直下からはR450を確認することができました(写真13)。このR450もR448同様強い火災を受けていました。床面からは炉、土器、さらに炭化した大量の小麦が見つかりました(写真14)。このR450を覆っている火災層は、V区へと延びておりましたが、V区のほぼ真ん中でその姿を消していました。これには次のように考えることができると思います。V区からVI区にかけて数多くのピットが検出されておりますが、一つの可能性としましては、そのピット群が火災層を切断したことをあげることができるかと思います。ただ、如何に多くのピット群とは云いましても、ピット群が掘り込まれる際に、火災で生じた焼土層をすべて消滅させると云うことは不可能ではないかと思いますし、何処かにその痕跡があってもよさそうなものです。それ以上に、その火災層を断ち切るだけの東西に走る建築遺構なりがV区で存在している可能性を考える必要がありそうそうです。つまり、V区で東西に走る遺構、強いて言えば壁体などの遺構の存在です。これに関しましては2016年の調査で明らかにしたいと思っています。

写真14:北区 IV区R450 炭化した小麦[クリックで拡大]

写真14:北区 IV区R450 炭化した小麦
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IV〜V区で見つかっている火災によって生じた焼土層はV区で唐突に消えていますが、その類いの焼土層はVI〜VII区でも確認されています。その火災層は、ピット内でも出土しています(写真15)。IV〜V区の焼土層とVI〜VII区の焼土層とでは、高低差がかなりあるようにも見えます。これが実際のところ結び付くとすれば、既述したようにV区のところで焼土層が消えた背景には、間違いなくそれを取り除くなんらかの遺構を確認する必要があります。もしその存在が明確になりますと、IV〜V区の焼土層とVI〜VII区の焼土層が無理なく結び付くものと思います。

写真15:北区 VI区 ピット内火災層[クリックで拡大]

写真15:北区 VI区 ピット内火災層
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写真16:北区 III〜V区 西断面[クリックで拡大]

写真16:北区 III〜V区 西断面
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前期青銅器時代の西断面を観察すると、IV区がその時代の頂上部であることが明らかです(写真16)。つまり、IV区を境として火災層が北側と南側へ傾斜する形で確認されていますので、これを一つの基準として前期青銅器時代の層序を構築して行きたいと思っておりますし、後期鉄器時代、中期青銅器時代は遺丘のほぼ中央部にその中心部がありますので、それから云いますと時代によって集落の最高部が移動していることが判ります。

写真19:南区 XXXIV、LII、LVI区[クリックで拡大]

写真19:南区 XXXIV、LII、LVI区
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南区の建築遺構

南区では、I、III、XXI区では後期鉄器時代(写真17)、XXVIII、XXX区では後期鉄器時代と中期鉄器時代(写真18)、XXXII、XXXIV、LII、LVI区では中期鉄器時代と前期鉄器時代の建築遺構(写真19)に焦点を合わせて調査を進めました。南区の調査目的は、既述した通りですが、前期鉄器時代と後期青銅器時代の間で建築遺構、出土遺物で結び付きがあるか否かを確認することです。このテーマは、この十年追い続けているものです。

写真17:南区 I、III、XXI区[クリックで拡大]

写真17:南区 I、III、XXI区[クリックで拡大]

写真18:南区 XXVIII、XXX区[クリックで拡大]

写真18:南区 XXVIII、XXX区[クリックで拡大]

1.後期鉄器時代—I、III、XXI、XXVIII、XXX区

I、III、XXI区では、後期鉄器時代の建築遺構、それとピット群を検出しました。それらのピット群の一つ-P1327から後期鉄器時代の土器がまとめて出土しています(写真20)。その多くは灰色土器です(写真21)。建築遺構の何れも保存状態は不良でしたが、これらの発掘区にはXXVIII、XXX区で検出されている中期鉄器時代-IIc層の建築遺構が顔を出し始めておりますので、その中期鉄器時代の建築遺構をI、III、XXI区で後期鉄器時代の建築遺構を取り外すことによって確認することを調査の目的としましたが、今シーズンは明確に中期鉄器時代の建築遺構を確認することはできませんでした。

写真20:南区 I区 P1327[クリックで拡大]

写真20:南区 I区 P1327[クリックで拡大]

写真21:灰色土器[クリックで拡大]

写真21:灰色土器[クリックで拡大]

写真22:南区 XXVIII、XXX区 R222[クリックで拡大]

写真22:南区 XXVIII、XXX区 R222
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XXVIII区とXXX区では、2014年の調査で後期鉄器時代の建築遺構が確認されておりましたが、それらを取り外したところでIIc層に年代つけられる建築遺構—R222が見つかりました(写真22)。これらの建築遺構の形態は平地式です。これまで確認されているIIc層の建築遺構の形態は2分類されています。IIc層の第1建築層は南区で数多く確認されている半地下式のものです。それとそれによって壊されている第2建築層、つまり平地式です。これから判断しますとR222は、中期鉄器時代の第2建築層に位置付けられることになります。

2.中期・前期鉄器時代-XXXII、XXXIV、LII、LVI区

これらの発掘区では、これまで中期鉄器時代のIIc層の建築遺構が確認されていますし、それらを取り外したところでIId層、つまり前期鉄器時代の少なくとも5建築層が検出されています。それらの多くは平地式が中心ですが、上層に向かうに連れてIIc層の半地下式と比較するとかなり浅めの掘り込み形式の建築遺構が目につきます。

写真23:南区 XXXIV、LII、LVI区[クリックで拡大]

写真23:南区 XXXIV、LII、LVI区[クリックで拡大]

今シーズンは、昨シーズン出土しているIId層のR225、つまり柱穴を持つ回廊遺構、それを切る形になっているR211、R215の取り外しを行ない掘り下げましたが、ピットなどは見つかったものの明確なプランを示す建築遺構は確認することは出来ませんでした(写真23)。ただ、昨年検出したIId層の建築遺構直下の覆土内からは前2千年紀前半に年代付けられる遺物が幾つか出土していることと、LI区からはほぼ同じ層位から前2千年紀の建築遺構が出土していることを考えますと、今シーズン、 LII、LVI区のIId層直下の層序は前2千年紀に入り始めていると考えることができます。

出土遺物

出土遺物としましては、ほぼ例年通り、土器などを含む土製品、青銅製品、鉄製品、鉛製品、印章、印影、人物像が描かれた土器片をあげることが出来ます。

1.土器

土器は、IIa層の灰色土器(写真21)が、南区のI区で検出されたP1327から大量に確認されました(写真20)。土器の出土状況を見ますと、このピットは明らかに土器を収蔵した施設の可能性が高いような感じを強く受けます。このように数多くの土器がピット内から一括で出土するのは、カマン・カレホユックのこれまでの調査では、IIa層—後期鉄器時代の層序から幾つか見られます。土器が完形で出土するのも特徴としてあげること出来るかもしれません。

写真24:彩文土器片[クリックで拡大]

写真24:彩文土器片[クリックで拡大]

IIc層に年代付けられる彩文土器片は、北区のXIX〜XX区で出土しています(写真24)。また、この類いの彩文土器片は、南区のXXVIII、XXX区でも出土しています。

IId層の典型的な土器は、北区のXVIII区の火災層、さらには南区のXXXIV、LII、LVI区からも出土しています。何れもIId層の土器の特徴であるスサが大量に混入されています。

IVb層—前期青銅器時代の土器は、北区のIII〜VII区内で出土しましたが、R450の床面直上から手捏ねの椀型土器(写真25)が出土していますし、VI区のP3398からは口唇部が内湾する前期青銅器時代の典型の椀型土器(写真26)がピット床面から検出されました。また、今シーズンは、原位置ではありませんが前期青銅器時代の後半に年代付けられる中間期土器、アリシャル第III様式土器片なども出土しています。これらの彩文土器の中で、後期アリシャル第III様式土器に関しましてはある程度認識することは可能ですが、前期に関するアリシャル第III様式と中間期土器との間の差異がカマン・カレホユックの発掘調査では今一つ明確になっていません。

写真25:手捏ねの椀型土器[クリックで拡大]

写真25:手捏ねの椀型土器[クリックで拡大]

写真26:椀型土器[クリックで拡大]

写真26:椀型土器[クリックで拡大]


2.青銅製品

青銅製品としましては、主にフィブラ(写真27)、鏃、動物を模した把手(写真28)が出土していますが、何れも後期鉄器時代に年代付けられるものです。特に青銅製の把手は、中がパイプ状になっているのが特徴です。

写真27:フィブラ[クリックで拡大]

写真27:フィブラ[クリックで拡大]

写真28:動物を模した把手[クリックで拡大]

写真28:動物を模した把手[クリックで拡大]


写真29:鉛製神像[クリックで拡大]

写真29:鉛製神像[クリックで拡大]

3.鉄製品

鉄製品は、南区のI、III区から鏃、ナイフなどが出土していますが、何れもIIa層に年代付けられます。

4. 鉛製品

南区のIId層の半地下式であるR138の北壁の取り外しの際に神像と思われる鋳型製の鉛製品が出土しました(写真29)。この鉛製神像の類例は、北区のIIIc層—アッシリア商業植民地時代からも見つかっています。両遺物の特徴は、中心部に神像、脚部の側に動物が配されていることです。

写真32:水晶製の円筒印章[クリックで拡大]

写真32:水晶製の円筒印章[クリックで拡大]

5. 印章

印章は、前期青銅器時代から植物をモチーフにしたと思われるスタンプ印章(写真30)、アッシリア商業植民地時代に年代付けられる水晶製の円筒印章(写真32)、偶蹄動物の蹄を模したスタンプ印章(写真31)等が出土しています。特に、円筒印章には守護神であるラマが彫り込まれており、ラマ神の様式から前18世紀頃のものと考えられます。この円筒印章は南区のLVI区で確認されている柱穴のある回廊遺構を取り外した後に出土しました。

写真30:スタンプ印章[クリックで拡大]

写真30:スタンプ印章[クリックで拡大]

写真31:スタンプ印章[クリックで拡大]

写真31:スタンプ印章[クリックで拡大]


6.印影

印影もまた、水晶製の円筒印章が出土した柱穴付きの回廊遺構直下から確認されています。この印影には三角帽を冠っている人物像、顔の前には町などを表わす三角形の限定符、その下には幾つかのヒエログリフなどが認められます(写真33)。これらに関しては現在解読中です。

写真33:印影[クリックで拡大]

写真33:印影[クリックで拡大]

写真34:人物像が描かれた土器片<br />[クリックで拡大]

写真34:人物像が描かれた土器片
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7. 人物像が描かれた土器片

人物像が描かれた土器片(写真34)も、円筒印章等と同じ層位ですが、極めて興味深い資料です。出土地は南区のLII区、P1268です。つまり、この土器片が、柱穴付きの回廊遺構を壊しているR211、R215直下の層位から出土していること、ほぼ同じ層位から前2千年紀の印影などが出土していることを考えますと、この人物像を描いた土器片も前2千年紀に年代付けられるのではないかと思います。

写真35:カマン・カレホユック遺跡(保護屋根あり)[クリックで拡大]

写真35:遺跡(保護屋根あり)[クリックで拡大]

遺跡保存

発掘調査終了後、北区と南区の発掘区出土の遺構、断面の保存作業を行いました。例年通り、北区では鉄骨を組み、保護屋根を架け、南区ではジオテックの布をかけて出土遺構の保護を行いました(写真35)。

写真36:ドローンを使っての撮影[クリックで拡大]

写真36:ドローンを使っての撮影[クリックで拡大]

遺跡撮影

これまで気球にカメラを搭載して遺跡を上空から撮影しておりましたが、今シーズンからドローンを使っての撮影を行いました(写真36)。気球に比較して気軽に撮影できるのが何よりのメリットではないかと思いますし、発掘調査中の経過を撮影しておくことが出来るのも大きな貢献ではないかと考えます。

謝辞

今シーズンの発掘調査も多くの方々からの助成、協力があって遂行することが出来ました。出光文化福祉財団、JKA、住友財団、文化財保護・芸術研究助成財団、トルコの文化・観光省に対して誌上をお借りしてお礼を述べたいと思います。



第30次カマン・カレホユック発掘調査(2015年)途中経過(2)

カマン・カレホユック2015年

北区 作業の様子

第30次カマン・カレホユック発掘調査は順調に進んでいます。

北区のXVIII〜XX区では第IIa層の後期鉄器時代、第IIc層の中期鉄器時代、そして第IId層を盛んに掘り下げているところです。ここで注目されるのは、第IId層から出土した彩文土器の中に、第IIc層の彩文土器の典型的なものとして考えられていた円文が確認されたことです。第IId層ではこれまで円文が全く確認出来ていなかったこともあり、今後の研究テーマの一つとなりそうです。

カマン・カレホユック2015年

北区 作業の様子

III〜VII区では前期青銅器時代、つまり前3千年紀の第四四半期の文化層を掘り下げています。出土するほとんどが手捏ね製の土器ですが、中には轆轤製のものも幾つか出土しています。今シーズン、これらの発掘区では、集中的に前期青銅器時代の火災層を中心に調査を進めていますが、この火災層を界として大きく文化が変わってしまうのではないかと云う仮説を抱いています。これにつきましては、途中経過の最終報告でお伝え出来ればと思っています。

カマン・カレホユック2015年

南区 作業の様子

南区では、LII、LVI区で、第IId層、さらには現在前2千年紀の第III層の文化層を掘っている最中です。ここでの初期鉄器時代の第IId層からは6〜8建築層が確認されており、それに附属する遺物を現在整理しているところです。

カマン・カレホユック2015年

南区(XXI区,I区,III区)

また南区のI、III、XXVIII、XXX区では第IIc層と第IIa層の建築遺構を調査しています。第IIc層の第2建築層の遺構が予想以上に広がりを持っていた可能性が昨シーズンの調査である程度確認出来てはおりましたが、今シーズンの調査でさらに明確になってきました。

カマン・カレホユックの発掘調査も半ばを過ぎましたが、ここ数日の暑さは真夏そのものです。この暑さはおそらく8月中旬までは続くのではないかと思います。その後は早朝、息が白くなる程気温が急激に下がってくるはずです。小麦の刈り入れも終わり、ヒマワリの刈り入れが始まっています。なんとなく高原が広く感じてきました。(2015年8月17日)(大村幸弘)

カマン・カレホユック2015年

南区 作業の様子

カマン・カレホユック2015年

南区 作業の様子



第30次カマン・カレホユック発掘調査(2015年)途中経過(1)

カマン・カレホユック2015年

カマン・カレホユック空撮

今シーズンはどうしたことか雨に大分祟られっぱなしです。6月下旬に発掘区のクリーニングを開始し、なんとか7月の初旬に本格的な発掘に入ることができました。

今シーズンの調査目的は、例年通り北区で「文化編年の構築」、南区ではここ数年追っている「前期、中期鉄器時代の文化編年の解明」を掲げました。特に、北区のIII〜VII区で、前期青銅器時代の文化編年の構築に重点を置いています。今回は前期青銅器時代について途中経過をお知らせします。

カマン・カレホユック2015年

北区 IV区

昨年調査を行なったR447の北側、西側の掘り下げを行なっています。このR447が火災を受けていますが、その北側の部屋もR447同様かなり強い火を受けていることが分りました。ここから出土している土器片は総て手捏ねであると同時に粗製のものがほとんどです。この火災を受けた建物が北へと続いていることは発掘で明らかになっています。その火災層もV区のところで急激な落ち込みで終わっています。この背景には次のことが考えられます。この落ち込みの原因の一つとして、前期青銅器時代の文化層が直上の文化によって大きく掘り込まれた可能性をあげることができます。直上には中期青銅器時代のアッシリア商業植民地時代の土台が石造りの建物があり、その建物が少なくとも4度にわたって増改築されています。このアッシリア商業植民地時代の建物が建設される際に、その下に位置する前期青銅器時代の建物を取り壊し整地した可能性が大きいようです。カマン・カレホユックでは、前2千年紀のヒッタイトの時代にも同じような落ち込みが見られます。

カマン・カレホユック2015年

北区 IV区

前期青銅器時代の調査で、もう一つ注目すべきことは火災層です。昨年と今シーズンも発掘を行なっているR447の火災層の他に、V区とVII区でも火災層見つかっています。V区とVII区の火災層はほぼ同時期と考えることは出来ますが、層序としてはR447の火災層とは一時期古いものと思われます。R447の直上から出土している炭化物を測定(AMS測定)したところ前2135年前後、つまり前3千年紀第四四半期の年代の結果が出てきています。これから云えますのは、炭化物を採集した層より下に位置するR447は、少なくとも前3千年紀の第四四半期かそれよりも少し古い年代がでてくるのではないかと思います。また、これも一つの推測となりますが、R447の火災層より下層に位置するV区、VII区の火災層は、前3千年紀第四四半期の初頭か第三四半期に年代付けられる可能性もあります。今シーズンはR447の床面直上からの炭化物、さらにはR447の火災層より一時期古いと推測される火災層の炭化物を採集しAMSによる年代測定を行ないたいと考えています。ヒッタイト民族を始めとする印欧語族が侵攻した際にアナトリアの都市という都市は、すべて焼き尽くされたとの仮説がアナトリア考古学にはあります。果たして、カマン・カレホユックで見つかっている前期青銅器時代のどちらの火災層が印欧語族の侵攻と結び付くのか、あるいはこれまでとは全く違う考えが出てくるかは今後の調査を待つ以外ありません。

カマン・カレホユック2015年

北区 VII区

今シーズンの査察官のサドゥルラさんは、温厚の人柄で作業してくれている労働者にも丁寧な接し方をしてくれているのが何よりです。発掘調査の成否は査察官によるところが多いと云われます。このことを考えますと、第30次カマン・カレホユック発掘調査は、サドゥルラさんのお陰で極めて順調に進んでいると云えます。  次回は南区の発掘調査の途中経過をお知らせしたいと思います。(2015年7月20日)(大村幸弘)



第30次カマン・カレホユック発掘調査(2015年)開始

カマン・カレホユック2015年

子供たち

カマン・カレホユック2015年

テント設営作業

カマン・カレホユック発掘調査は、今年で30年目を迎えました。6月28日に文化・観光省からサドゥルラ・アリマフムットオウルラルさん(クルシェヒル考古学博物館学芸員)が査察官として派遣されてきました。昨年の遺跡踏査の査察官もサドゥルラさんでした。6月29日からは南区のクリーニング、さらには北区の保護屋根外しを開始しましたが、保護屋根をかけていた発掘区の遺構は、昨年の調査終了時の状態にそのままなっており、如何に保護屋根が遺跡保存に重要かを再認識しました。今シーズンは、例年以上に雨が多く、天候の回復を待ちながらの発掘開始となりました。

カマン・カレホユック2015年

保護屋根取り外し作業

カマン・カレホユック2015年

保護屋根取り外し作業

カマン・カレホユック2015年

保護屋根取り外し作業

カマン・カレホユック2015年

クリーニング

カマン・カレホユック2015年

授業(トータルステーションの使い方)

第30次発掘調査では、北区—前期青銅器時代、南区—中期鉄器時代、前期鉄器時代に焦点を合わせて調査を行ないたいと思っております。研究所のあるチャウルカン村からは、毎日のように土器洗い、遺物の分類作業を手伝いたいと云う子供たち(15歳以下の中学生、時には小学生も兄弟に連れられてやってきます)の応募があまりにも多く、採用リストを作成するのに一苦労をしています。来週から本格的発掘に入る予定です。(2015年7月4日)(大村幸弘)