ヤッスホユック

大村 正子 アナトリア考古学研究所研究員

第5次ヤッスホユック発掘調査(2013年)

第5次ヤッスホユック発掘調査は、2013年9月2日から11月2日までの9週間行われました。ただし発掘開始に先立ち、8月28日から30日までは昨年架設した保護屋根外し及び機材等の準備を行い、また、発掘終了後、発掘区を覆う保護屋根の架設を11月4日から10日までの7日間で行いました。

第5次発掘調査終了時全体写真 東上方より撮影[クリックで拡大]

第5次発掘調査終了時全体写真 東上方より撮影
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グリッド図[クリックで拡大]

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第5次調査も過去4シーズンの調査に引き続き、1)第I層では、後期鉄器時代の調査を進めその構造を明らかにすると共に、中期、前期鉄器時代の層が存在するか否かを探る、2) 第II層の王宮址のプランをより明確にする、という目的に沿って行われました。しかし、今シーズンは特に、中央の8グリッドの西に昨シーズン開けた2グリッド(E8/d8, E8/e8)に加え、今シーズン新たに開けた5グリッド(E8/f8, E8/g8, E9/d1, E9/e1, E9/g1)における第I層:鉄器時代に重点をおいた調査が行われました。但し、中央8グリッドではグリッド間に残っているセクションボークの取り外しを行い、 第II層の王宮址の各部屋を床面まで掘り下げる作業を継続しました。

1)第I層

第I層の調査としては、E8/d8, E8/e8, E8/f8, E8/g8, E9/d1, E9/e1, E9/g1の7グリッドで後期鉄器時代(紀元前4〜6世紀頃)の遺構を発掘し、E8/d8, E8/e8の2グリッドでは中期鉄器時代(紀元前8世紀頃)の遺構を確認しました。

後期鉄器時代

ヤッスホユックの頂上部(Area1)における第I層の上層部は現代の耕作によりかなりの部分が破壊されており、第1〜第3もしくは第4建築層として検出されるのは、ほとんどが床面下の礎石部分のみで、床面の検出もきわめて稀です。特に西側グリッドにおける破壊は激しく、建築層の層序の確認をも困難にしていますが、昨シーズンまでに確認されている建築層に新たに幾つかの建築層が付加され、層序が修正されました。これらの建築層はその出土遺物から、およそ紀元前4世紀から6世紀頃のものと考えられます。

片手付水差し 黒色磨研土器[クリックで拡大]

片手付水差し 黒色磨研土器
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スカラベ[クリックで拡大]

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青銅製鏃[クリックで拡大]

青銅製鏃[クリックで拡大]

青銅製フィブラ[クリックで拡大]

青銅製フィブラ[クリックで拡大]

第1建築層: 新しく設定したグリッドで表土を剥ぐと、幾つかの断片的な壁が検出されました(E9/d1: W129, 130, 131; E9/g1: W136, W137, W138)が、何れも相互関係が明確な遺構を形成するものとはなりませんでした。

E8/e8グリッド R52, R54[クリックで拡大]

E8/e8グリッド R52, R54[クリックで拡大]

第2建築層: E8/e8で検出されたR52, R54, R13、E8/f8-g8のR6, R9, R51、E9/d1のR57, R61, R67、E9/e1のR61, R62, R64が第2建築層に属する遺構であると見なされます。これらは何れも掘込み式の建物で、後述する第3建築層の建物を一部壊すと共に、壁等の一部を利用しながら建設されていることが特徴です。また、遺構の多くが2度、3度と改修、改築されています。例えば、E8/e8のR13の西壁W113はR54の北壁W106をその背部の堆積土と共に切り壊しながらも、R54の内部にあたる部分はR54側にも面をもつ両面壁として、R13とR54は 同時期にも使用されていたことが、明らかです。また、R54の北壁W106はその構造から本来、後述する第3建築層に属していたものと考えられ、R54建設時に再利用されたこと、R54そのものも、少なくとも仕切り壁、床面が付加され改築されていることが明らかです。

E8/f8-g8 グリッド R6, R9, R51[クリックで拡大]

E8/f8-g8 グリッド R6, R9, R51
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E8/f8−E8/g8では、E8/f9で2009年に検出され第2建築層の後期2aと前期2bと見なしたR6, R9(2a)とR10(2b)の西側部分とそれらに関連する遺構を発掘しました。ここでもR51, R9, R10は北西から南東に走る片面壁W26を共有しつつ、R9の北西壁W154はR51の南西の両面壁W120の南西側面の前面に1列壁を付加したものであるなど、大きな時間的隔たりなく改築された遺構が検出されました。


第I層第3建築層平面図[クリックで拡大]

第I層第3建築層平面図
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第3建築層:2009−2011年に中央の8グリッド(E8/d9, d10, e9, e10, f9, f10, g9, g10)で神殿もしくは王宮のような公共建築と見られる大遺構の礎石部分が明らかにされました。これに連続する遺構および壁を、今シーズンはE8/d8, E9/d1, f1, g1で検出しました。

E8/d8では東隣のグリッドE8/d9より延びるW57が検出されましたが、上層の遺構やピット、さらには現代の耕作により大きく破壊され、途中で中断されている状況です。但し、W57も隣接する石列(おそらくは第4建築層のW35の一部)を部分的に壊して築かれています。E9/d1グリッドでは西隣のE8/d10グリッドから延びるW40を検出し、このW40と新たに検出されたW133とW171から成るR68、E9/e1グリッドでは2010年にE8/d10, e10グリッドで検出されたW36, W28, W15の延長部すなわちR17とR18の東部分を検出しました。E9/d1で検出したR68の北への連続部分はE9/e1グリッドではまだ検出されていません。

E9/d1-e1 Grids[クリックで拡大]

E9/d1-e1 Grids[クリックで拡大]

E9/g1では、E8/g10で2011年に出土した深く掘込んだ溝に礎石を詰めて築かれた壁W74とW73の連続部とこれらに対応するW139とW148から成るR30を確認しました。

W139の外部、W15とW36の北側外部に検出された断片的な敷石は、2009年にE8/f10でW15の北側で、また、2011年にE8/d10でW26とW36の南側で検出されたやはり断片的な敷石と共に、中央の矩形の建物と周辺の建物の間に平らな石が敷き詰められた回廊状の敷石遺構があったのではないかと推察されます。

第4建築層:E8/d8の南東部で検出された巨大な石列W162は、第Ⅱ層の赤橙色の焼土の上のピンクがかった黄色の焼土を掘込んで組まれたような礎石で、E8/e10で第3建築層のR17の下から検出されたW68, W69と並行するものと考えられます。

中期鉄器時代

前期、中期鉄器時代は、カマン・カレホユックの Ⅱc層、Ⅱd層の発掘調査により、新しい知見が得られようとしていますが、ヤッスホユックにおいては、2010年に出土したヒエログリフの刻まれた鉛製手紙文書片の存在が、この時代への関心を高めています。この鉛製手紙文書片は、中央アナトリアでは今まで全く跡づけられていないヒッタイト帝国崩壊後の後期ヒッタイトの王国、特にタバル王国に関わる都市が前8−9世紀のすなわち前・中期鉄器時代のヤッスホユックに存在していたことを期待させるからです。今年度の調査では、後期ヒッタイトを決定的に跡付ける遺構遺物は検出されませんでしたが、中期鉄器時代の遺構が少しずつ出土し始めています。

第9/10建築層 E8/d8ではグリッドの東端で、W162の下に検出されたピットP140にW78とそれに直交する壁は、E8/d9で2011年に発掘されたR33の北西角を構成しています。

アリシャルⅣ式彩文土器片[クリックで拡大]

アリシャルⅣ式彩文土器片
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E8/e9の調査ではR33からの出土遺物はきわめて少なかったのですが、これを壊しているピットP41から多量に出土した土器片は、概ねカマン・カレホユックのⅡc層(B.C.8世紀頃)に並行するもので中期鉄器時代に位置づけられますが、一部カマン・カレホユックのⅡd層(B.C.11-9世紀頃)、すなわち前期鉄器時代のものと思われる土器片も含まれていました。このR33に平行すると見られる掘込み式の遺構が、R58, R65, R59です。グリッド西端のR58のW141は、第2/3建築層のW114によって壊されていました。R65は、周壁は 後期鉄器時代のピット群によって壊されてしまっており、内部の壁に沿って敷設されていた日乾煉瓦のベンチが矩形の遺構の形を示唆しています。R59は、R65とピットによって壊されていましたが、掘込み式の矩形の遺構で、やはり内部壁沿いに土製のベンチが敷設されていました。掘込み式で、壁沿いにベンチが敷設されている掘込み式建築は、カマン・カレホユックではⅡc層、すなわち中期鉄器時代の特徴と言われていますが、両遺構から出土している土器も中期鉄器時代もしくは前期鉄器時代の特徴を示しています。

E8/d8 Grid R59, R65[クリックで拡大]

E8/d8 Grid R59, R65
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E8/d8 Grid R59[クリックで拡大]

E8/d8 Grid R59
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グリッド中央部でR65に先立って検出されたピットP87は、第Ⅱ層の赤橙色の焼土に深く掘込まれたものですが、このピットからも後期鉄器時代の土器片に混じって中期・前期鉄器時代の特徴を示す土器片が数多く出土しました。加えて、R58とR59の間で両遺構により切られている灰色の堆積土を掘り下げた所、R58によって切られている南北には知る1列の石列W189が出土し始めましたが、この壁に関連する調査は来シーズンに持ち越されました。

E8/e8では、上述の第2建築層のW106の北側背後に残るW106により南部分を切り壊されているピットP72は、北隣のE8/f8へ広がる大きなピットで、中央部を後期鉄器時代のピットP129によって壊されていますが、出土土器片から中期鉄器時代のものと考えられます。P72の底面の直下に、わずかに残存するW150とW151がコーナーを形成するR71が確認されました。最下部の石列がわずかに残るだけですが、この遺構も第Ⅱ層の赤橙色の焼土を掘込んでいたものです。

E8/f10, E8/g10では、第Ⅱ層のR46を大きく破壊しているP34の掘り下げを継続しました。出土遺物から中期鉄器時代に年代付けられているP34は、底部は中央に向かって急傾斜で深くなり、その側壁も一様でなく、R46内部を無秩序に掘り荒らした様な状況です。

2)第II層

R8, R27俯瞰写真[クリックで拡大]

R8, R27俯瞰写真
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2012年度までに中央の8グリッドE8/d9, d10, e9, e10, f9, f10, g9, g10で、王宮址と考えられる大きな建造物の中央部でそのプランが概ね把握され、北西−南東方向の軸をもち、コートヤード/中庭もしくは謁見の間と見られるR8を中心に、廊下や各部屋がまさしく左右対称に配置された大遺構であることが明確になりました。今シーズンは、E8/d9-d10, E8/e9-e10, E8/d10-e10間の三つのセクションボークを取り外し、R8およびR27をより明らかにすると共に、E8/f10でR21を床面まで掘り下げ、E8/g9ではR20の北側の調査を進めました。

E8/e9-E8/e10間のセクションボークを外すことにより、R8の中央付近に設置されていた矩形の付帯部がついた円形(全体としては鍵穴形)の炉の全体が明らかになりました。この炉の上には五徳もしくは炉用器台と思われる把手付の土製品が1基載せられていました。

E8/d9-E8/d10間のセクションボークを外し、その南端部でW58に設けられたR38(未発掘)とR27を繋ぐ出入口が、 R8とR27間の出入口とまさしく平行する位置に確認されました。この出入口の両側面は、壁に約20cmの厚さの上塗りがあり、そのR27側の両端には、扉の軸が差し込まれていたかと推察される径10cm余りの竪穴が検出されました。しかし、この竪穴には炭化木材等、その素材を示す痕跡は見出されませんでした。

R27-R38 出入口 R27側より[クリックで拡大]

R27-R38 出入口 R27側より
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R27-R38 出入口 南上方より[クリックで拡大]

R27-R38 出入口 南上方より
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E8/f10, E8/g10 grid R21, R46[クリックで拡大]

E8/f10, E8/g10 grid R21, R46
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R21:E8/f10およびE8/e10でR21を床面まで掘り下げました。R21は中庭R8を挟んでR27と対応する 細長い空間で、その南東端にはR27同様R8に繋がる出入口があり、また、北側の部屋R46と繋がる出入口も検出されました。R21の床面では、やはりR27同様、大形の両耳付甕、嘴形注口付壷等の土器が原位置で出土しました。これらは何れも赤色スリップが施された手捏ねの土器です。これらのうちの破片にわずかに炭化した大麦が付着していました。

甕形土器出土状況 R21[クリックで拡大]

甕形土器出土状況 R21
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炭化した大麦が付着した土器片 R21出土[クリックで拡大]

炭化した大麦が付着した土器片 R21出土
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甕形土器出土状況 R46[クリックで拡大]

甕形土器出土状況 R46
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R46:E8/g9-f9でP34により内部が著しく破壊されたR46では、2点の復元可能な甕の他、 半裁された甕、僅かに底部が残存するもの、甕が据えられていたと推察できる掘込み状の痕跡等が壁沿いに並んで検出され、R46が貯蔵室のような1室であったことが窺われました。R46とR21の間の壁W58には、ステップのある出入口が発掘されました。


R20, R41, R48[クリックで拡大]

R20, R41, R48
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R41:E8/g9でR41の西半分を床面まで掘り下げました。床面には、やはり大形の土器が出土しています。R41とR20の間にある壁W109は、昨年の段階では北西方向に延びていると思われていましたが、R20の北東角で終わっており、R20とR41の外部は一続きの様相を示しました。この外部は鉄器時代のピットによって大半を壊されていますが、ここから大形土器は出土しませんでした。

3)遺物の推定年代と出土層位の不整合

2013年度の調査では、2点の特筆すべき遺物が出土しました。それらは鉛製板形ライオン立像と焼成粘土製刷毛の把手部です。この二つは何れも、鉄器時代の層を調査している際に出土したものですが、紀元前2千年紀に類例が見られるもので、撹乱を受けて、上層から出土したものと見てよいと考えています。 特に、鉛製ライオン像は、紀元前18世紀頃のアッシリア商業植民地時代の遺物として捉えられます。


鉛製板形ライオン立像[クリックで拡大]

鉛製板形ライオン立像
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焼成粘土製刷毛把手部[クリックで拡大]

焼成粘土製刷毛把手部
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遺丘頂上部で現在発掘を行っている区域では、 第I層の鉄器時代のすぐ下に検出された第Ⅱ層の王宮址は、アッシリア商業植民地時代(紀元前19〜18世紀)よりやや古い時期のもので、おそらく前期青銅器時代から中期青銅器時代への過渡期(紀元前3千年紀後半〜2千年紀初頭)に位置づけられるものと考えられます。しかし、特にこの2点の遺物と2011年に出土した同時期の典型的な意匠が押印された封泥、さらに、今年度のレーダー探査の結果を考え合わせると、当時のすなわち紀元前2千年紀第1四半期のアッシリア商業植民地時代の都市がヤッスホユックに存在した可能性が大いに高まります。


レーダー探査の結果 (by 福田勝利)[クリックで拡大]

レーダー探査の結果 (by 福田勝利)
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今年度のレーダーによる地中探査の結果、遺丘北西裾野において、東西に広がる様相を示す遺構の存在が確認され、『下の町』の存在が大いに期待されることとなりました。その構造は、アッシリア商業植民地時代の中心都市であったキュルテペ/カニシュ・カールムのそれに類似しています。

『下の町』については、さらに地中探査を進め、その位置、広がり等を確認した上で、発掘調査を行いたいと考えています。そして、アッシリア商業植民地時代の都市が、遺丘頂上部のどの部分に存在するのかは、未だ簡単には言えませんが、今後、遺丘におけるこの時代の都市の存在をも視野に入れて調査を進めることで、本来意図していた紀元前3千年紀から1千年紀に渉り存在した都市の構造を明らかにしていくことができるのではないかと考えています。



第5次ヤッスホユック発掘調査(2013年)開始

ヤッスホユック発掘区全景

ヤッスホユック発掘区全景

第5次ヤッスホユック発掘調査は、発掘区を覆っていた保護屋根を外し、発掘資材の設置等を終え、9月2日に開始されました。

今シーズンは、昨シーズンまでに検出されている第Ⅱ層の大火災を受けた大遺構の発掘を継続すると共に、新たに4グリッド(1グリッド10m x 10m)における発掘調査を開始します。この4グリッドでは第Ⅰ層の鉄器時代の調査が中心になると想定されます。

作業風景

作業風景

レーダーによる地中探査も昨シーズンに続き、遺丘頂上部と周辺部で開始されました。

発掘は、例年通り、地元スタッフに支えられて進んでいますが、隊員としては4人の中心メンバーに加え、トルコ人の大学院生3人、日本人学生2人が参加しています。 9日からは考古学フィールドコースに参加する4人の日本人学生も加わりました。アンタルヤ博物館のフセイン・トプラックさんがトルコの文化観光省から派遣され、我々の調査を手伝ってくれています。

第5次発掘調査は11月2日まで行う予定です。