ヤッスホユック
大村 正子 アナトリア考古学研究所研究員
第13次ヤッスホユック発掘調査(2022年)
第13次ヤッスホユック発掘調査は、2022年9月12日から11月26日の11週間に亘り実施されました。
1. 2022 年度ヤッスホユック発掘調査の目的と発掘区域
遺丘の頂上部でこれまでに発掘された第III層(前期青銅器時代)の末期に属する建築遺構は、第I層(鉄器時代)および第II層(中期青銅器時代)に属する建築およびピットにより破壊されている部分が散見され、前期青銅器時代のさらに古い層に属する遺構や焼土の表出を観察することができます。2022年度は昨年度に引き続きこの前期青銅器時代の層を掘り下げるとともに、脆弱な形でしか確認されていなかった第II層中期青銅器時代の建築遺構の発掘にも注力しました。これにより、前期青銅器時代の編年とともに、前期青銅器時代から中期青銅器時代への変遷を辿ること、さらに紀元前3千年紀から2千年紀にかけての都市の発展の様相を明確にすることを目的として発掘調査を継続しました。具体的には、以下の3点に焦点を合わせた発掘調査を行いました。
- 1)遺丘頂上部(Area 1)で第I層鉄器時代の遺構群が残存しているグリッドE8/f7 と E8/g7において、これらの遺構群をさらに精査した後、それらを取り外し、下層へ掘り進める。
- 2)2021年度に E8/d8グリッドで確認された第II層中期青銅器時代の第4建築層(II-4)に属する大型建築遺構の連続部をE8/d7グリッドで発掘し、精査する。
- 3)E9/d1グリッドで第III層前期青銅器時代の第2の火災層まで掘り下げ、第1の火災層に属する大型建築遺構(III-1)の下に存在する前期青銅器時代の層を精査する。
2022年度に発掘調査を行ったグリッドは以下の通りです(Fig. 2):Area 1: E8/d7, E8/e7, E8/f7, E8/g7, E9/d1 およびグリッド間の隔壁 E8/e7-E8/f7, E8/e7-E8/e8 ile E8/f7-E8/g7.
2.発掘調査
2.1. 第I層: 鉄器時代
E8/f7, E8/g7グリッドおよびグリッド間の隔壁E8/e7-E8/f7, E8/f7-E8/f8, E8/f7-E8/g7における発掘調査は、鉄器時代の遺構群(Fig. 3)を精査、取り外した後、中期および前期青銅器時代の層へ掘り下げることが目的でした。
E8/f7グリッドに残存していた鉄器時代の遺構群は第I層の第6建築層(I-6)に属する遺構群のうち、以前の発掘調査でE8/e8とE8/e7グリッドで検出されていたR54, R131、R132の連続部でした。すなわちR54の北壁W345(E8/e8グリッドにおけるW106の連続部)と、これに平行に確認された上部が平たい石で構成されたベンチW383、そしてR131の北壁 W126と西壁W342が残されていました(Fig. 4)。E8/e7-E8/e8間の隔壁を掘り下ろす際、W345の連続部は確認できませんでしたが、W383の連続はわずかに1個の石により確認されました。E8/e7-E8/f7間の隔壁では、W126 と W286からなるR131の東隅が破損しており明確ではありませんでしたが、W126の礎石部であるW384のレベルまで掘り下げたところで、わずかに残る2個のコーナー石によって確認されました。
E8/f7グリッド内では、後の時期の多数のピットにより破壊されており、断片的ではあるものの、R54の床面および外部生活面が確認されました。ただし、外部生活面はW345の下に続き、ベンチW383を覆うR54の床面に繋がっていることが確認されました。R54の南壁でありR131の北壁でもあるW126の礎石部W384は、その上部壁であるW126とW342が作るコーナーを超えてさらに西に延びており、グリッドの西端近くでピットP384により切られていました(Fig. 5)。この礎石壁W384の造りは、R131も含む多室構造の建築遺構の南壁W280およびさらに古いI-8建築層の壁の構造に類似しています。すなわち、壁の長さおよび幅に合わせて前もって掘り込まれた溝に、最初にかなり大型の石を並べ、次に小さな礫を詰めて平衡をとり、その上に形の揃った中型の石を積み上げて壁を築くというものです(Fig. 6)。
I-6建築層の遺構群の上には上述したように多数のピットの層がありましたが、この建築層の下にもまた多数のピット群が確認されました。R54およびピット群の下に、深さ約1.20 mの矩形のピットP395が検出されました。このピットの底部にはピットの北および東の断面と平衡に壁があったことを推測させる断片的な石列W393とW394が確認されました。W393とW394は半地下式の建物R148を構成していたと考えられます(Fig. 7)。この半地下式建物R148のために掘られたと考えられるピットP395は、その北側でE8/f7から E8/g7に延びているR145の南壁W391を覆う黄褐色の土を切って掘られていました。
E8/g7グリッドでは、2017年に発掘された地下式建物R112のために非常に深く掘り込まれた矩形ピットが残されています。R112は後期鉄器時代の後半に属する遺構でした(I-4)。2022年度は、このピットに切られた古い土層に含まれる遺構を発掘しました(Fig. 8)。
R112の北側にR112によって切られた三つの建物が存在しました。一つは、R112の北西隅でP355の下にわずかに検出された矩形の遺構R138です。R138の直下には、土留めのためかと思われる部分的な石壁をもつピットP357が検出されました。
二番目は、R112の真北に検出された半地下式遺構のR137です。R137のために掘られた矩形ピットP356の側壁に平行なR137の壁のうち北壁W365に部分的に残存する石積みが見られましたが、W365の石積みの無い部分、東壁W364そして西壁W366は、粘土が詰められただけでしたが(Fig. 10)、これらの壁の内面はいずれも漆喰が塗られており、その前には低いベンチが見られます。南壁はR112によって壊されており、壁の前にあったものと考えられる低いベンチが一部残存していました(Fig. 9)。
三つ目はR137の東側に並ぶR142で、やはり半地下式建物です(Fig. 11)。R142はR137よりも小さいものの、形の整った石積みによる4壁に囲まれた遺構です。北西隅に2枚の日乾煉瓦が確認されましたが、ベンチ状の構造物はありませんでした。R142は、その北西部分でR142よりも古いピットP381を切って掘られた矩形のピットの断面に沿って築かれていました。
R137、R142で検出された土器は、鹿文等のクラテールに代表されるアリシャルIV式土器を含み、中期鉄器時代に年代づけられます。
E8/f7およびE8/g7グリッドにおける今年度明らかになった建築遺構の層序は以下のとおりです(Fig. 12)。これらの遺構は、出土土器から推察して後期および中期鉄器時代に属するものと考えられます。ただし、後述するように、R145, R92 およびR93は第II層中期青銅器時代に属するものと考えられます。
2.2. 第II層 中期青銅器時代
E8/f7, E8/g7グリッドでは鉄器時代の遺構を取り外した後、中期青銅器時代の調査に入りました。E8/d7グリッドでは2021年度に発掘された第II層の第1建築層(II-1)に属する建築遺構の下に、2021年度にE8/d8グリッドで確認された第4建築層に属する石造の大遺構R133の連続部を検出しました。
E8/f7, E8/g7グリッドで確認された東壁W391と南壁W392からなるR145と R146は(Fig. 13)、R145の床面に原位置で検出された尖底の壺型土器(Fig. 14)およびその中から見つかった尖底杯から、紀元前2千年紀の第1四半期、すなわち中期青銅器時代に属すると考えられます。
R92とR93は、2015年にE8/g8グリッドで発掘された丸いコーナーをもつ壁W227に囲まれた遺構に属するものです(Fig. 15)。R92とR93の隔壁W238の延長部とそのW238に直交するR92の西壁W392は、E8/g7グリッドの北東隅部分で確認されました。またR92とR93の床面の延長部も検出されています。
R145 と R146を覆う黄褐色の土層は、上述したように、南側のE8/f7グリッドではR148(P395)によって切られており、北側ではR142によって切られています(Fig. 13)。また、R145およびR146の東壁W347とその外部生活面は、E8/g8グリッドから延びているR92 と R93の外部生活面である黒色灰層の上に乗り上げています。
この様にE8/g7 グリッドでは現在のところ、第II層の中期青銅器時代に属する二つの層が確認されています。
E8/d7グリッドでの調査は、2021年に発掘されたII-1建築層に属するR81, R135, R136を構成するW230, W239, W360, W361を取り外すことから始められました。W360は、R135 と R136の南壁であると同時に、これらの部屋を含む多室構造の建築遺構の南外壁をも構成していました(Fig. 16)。南西方向に急勾配で下がる傾斜地に築かれた大型の石から成る壁W360は、礎石壁W395の上に築かれていました(Fig. 17)。
この多室構造の遺構を取り外すと、この建築に切られているものの、やはり南西方向に下降する厚い灰層があり、その下には、鉄器時代の大きなピットP250によって壊されてしまっている断片的な壁W374 とW375が検出されました。これらの壁はR133を覆う赤褐色の土層を切るものです。また、グリッドの南辺近くに出土した半地下形式の遺構R143はW374よりも下層に属し、かつR133直上の黄味を帯びた黒色の土層を切って築かれていました。R143の発掘に際しては、紀元前2千年紀初頭に年代付得る土器が多数出土しました。
W374, W375 および R143によって切られている土層の下から検出されたW356とW378は、 2021年度にE8/d8グリッドで検出されたR133の西壁の延長部と南壁です。R133の東、北、西壁の中程に検出されていた扶壁のような突出部と同様のものが、南壁W378の中程にも確認されました。これらの扶壁の機能は明確ではありません。また、この建物R133自体の機能も未だ分かってはいません。この大型の石壁からなる遺構R133は、II-1建築層に属する大型建築遺構の南西部分、特にR36を垂直に切り下ろし、かつ急勾配の斜面に築かれていました。すなわち、この急傾斜面は、前期青銅器時代の最後の時期(III-1)の大遺構が築かれるよりも前から存在したことになります(Fig. 18)。
2.3. 第III層 前期青銅器時代
前年度までの調査で、III-1建築層の大型の建築遺構が第I層の鉄器時代の建築やピットにより所々破壊されていることが確認されていました。これらの破壊によって、我々はIII-1建築層よりも下の前期青銅器時代の堆積や遺構を部分的に観察することが可能でした。特に、III-1建築層よりもさらに激しいものであったと考えられる第2の火災層の存在は、前期青銅器時代の編年や都市化の過程を明らかにしていく上で手がかりを与えてくれるものと考えられます。2022年度は、これらの手がかりとなるポイントのうち、第2の火災層の日乾煉瓦が一部露出しているE9/d1グリッドで発掘を開始しました。ここではIII-1建築層の大遺構の中心軸上にあるコートヤードの前室R39を外し、掘り下げを開始しました。この際、III-1建築層との関連をより明確に捉えるため、R39 の床面上に残る炉H43を半裁できる位置として、グリッドの西から幅1mの帯状部分を残して発掘を行いました(Fig. 19)。
2.3.1. E9/d1グリッドでR39の精査
R39の東壁と考えられるW287の外部(東側)は、鉄器時代の厚い壁により大きく壊されていました。ただし、W287の下にR39の床面が潜り込んでいることが観察されていたことから、まずW287およびその南側に続くIns29を取り外しました。これにより、R39に 2時期あること、すなわちR39の本来の床面が作られ、使用された後に、W287が炉H43と同時に、同様の材料(火災により白色化して保存されている日乾煉瓦)を使用して築かれ、R39は本来の半分ほどの広さに狭められています。この際、Ins30の北側の部分では本来の床面の上に、もう一枚床面が張られていたことが確認されました(Fig. 20)。
R39の床面を剥がすと、H43の下にH43よりも大きく西に拡がっている円形遺構H44(Fig. 21)と、グリッドの北端近くに脆弱な石壁の断片W369が検出されました。H44 もやはりW287とH43と同様の白色化して残存する日乾煉瓦で作られていました。H44が出土した周辺から北方向に旧傾斜で下る厚い灰層が存在しました。また、この灰層を切る多数のピットが検出されました(Fig. 22)。グリッドの北西部では厚い灰層が北西隅に向かって急下降しているにもかかわらず、グリッドの他の部分ではR39の本来の床面レベルの直下から、第2の火災層の遺構、建築材の残滓が見出されました。灰層を切っていたピット群の中で二つのピットP377 と P378は内部が灰で詰まっていましたが、他のピットでは灰分はあまり多くはありませんでした。特にP377(Fig. 23)からは、濃いチャコールグレーの灰とともに、アリシャルIII式土器に代表される土器片が多数出土しました。
多くのピットの側壁に観察されたように、2m余りの落差で北西に下降する厚い灰層の下には、第2の火災層を覆う灰黄色の土層が確認されました。
2.3.2. 前期青銅器時代の第2の焼土層に検出された遺構群:
前期青銅器時代の第2の火災層のものと思われる火を受けた赤橙色の日乾煉瓦やその残滓の堆積は、グリッドの南側で2m以上の深さで出土しています(Fig. 24)。これらの堆積の中にW370 と W371、R141、 W373 と W389からなるR144とR147、そしてそれらの間のかなり幅広の通路と思われるR140が確認されました(Fig. 25)。これらの中でR140は、日乾煉瓦を積み上げて築かれていた柱が崩れ落ちたもしくは滑り落ちたと考えられる倒壊物で埋め尽くされていました。これらの倒壊した柱群には、側面に漆喰が残されているものも検出されました(Fig. 26)。R141と倒壊した柱群は、本来の建造物が瓦解した後の一時期、本来の壁の一部を再利用しつつ、使用されたものと考えられます。R140では倒壊した柱群の下に続く黒色灰土の直下に検出された床面も、黒く焼けており、大型の壺型土器や炭化した丸太や板が検出されました(Fig. 27)。この床面からR144に上る階段Ins41(Fig. 28, 29)には3段のステップがあり、最下段は他の2段よりも長く、端に向かって先細りになっています。最上段は、煉瓦のように矩形に整形された粘土のブロックで縁取られており、R144の入り口にも同様の矩形の粘土が敷居のように敷かれています。W373に沿ってIns41の東側に浅い矩形の遺構Ins42が出土しました。Ins41の最上段と同様、煉瓦の様に矩形に成形された粘土を並べて縁取りされています(Fig. 30)。
E9/d1グリッドにおける 第III層の層序は以下の通りです(Fig. 31)。
3. 出土土器と小遺物
3.1. 鉄器時代
第I層の遺物の中では、銅/銅化合物製のスタンプ形印章(Fig. 32)、フィブラ(Fig. 33)、鏃(Fig. 34)、ピン/針(Fig. 35)、リング等、ガラス製ミニチュア容器(Fig. 36)やビーズ(Fig. 37)、石製のビーズや砥石、焼成粘土製紡錘車や錘などが、後期鉄器時代の遺物として挙げられます。中期鉄器時代の遺物としては、焼成粘土製の紡錘車や未焼成の土製錘のほか、鹿文が代表的なアリシャルIV式土器(Fig. 38)が注目されます。
3.2. 中期青銅器時代
第II層からの遺物は少ないのですが、銅/銅化合物製のピンや針、焼成粘土製の紡錘車が挙げられます。土器の中では尖底の杯(Fig. 39, 40)が特徴的です。
3.3. 前期青銅器時代
第III層の遺物としては、アリシャルIII式土器(Fig. 41, 42)、インターミディエイト土器とともに、焼成粘土製の紡錘車(Fig. 43)、骨格製品、砥石等がわずかに出土しました。
4. 発掘区の保護
13次発掘調査終了後は、例年通り、遺丘では発掘区には保護屋根を架け(Fig. 44, 45)、「下の町」の発掘区では、古くなったジェオテクスティルを新しいものに取り替え、シーズンオフにおける保護を図りました。