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中央アナトリアの考古学的一般調査
調査概要
1986年以来、カマン・カレホユックの発掘に平行して、中央アナトリアにおける考古学的一般調査(遺跡踏査)を継続しています。この調査では、未報告の遺跡を地図上に明示し、それぞれの遺跡の特徴をその形態、表採遺物から把握するとともに、カマン・カレホユックで出土している文化が、どの様な広がりをもって存在したかを確認することが大きな目的です。これまでにクルシェヒル、クルックカレ、アンカラ、ヨズガット、ネヴシェヒル、アクサライ、ニーデ、カイセリ、コンヤの各県で、総計1500の遺丘、平地遺跡を踏査しました。
2007年度は、クルックカレ県ケスキン郡を中心に調査を継続しました。これまでの調査報告は、Anatolian Archaeological Studies 各号に掲載。
クルシェヒル、ヨズガット県の遺跡踏査(2016年)
写真1:踏査遺跡
4月に開始したビュクリュカレ遺跡の発掘調査は6月下旬に終わり、続いてカマン・カレホユックの発掘調査を行ない、11月の初旬にヤッスホユックの調査も終了。その後、11月7日からクルシェヒル、ヨズガット県の遺跡踏査に入りました。この遺跡踏査の主目的は、カマン・カレホユック発掘調査で確認している文化が、中央アナトリアで何処まで広がっているかその範囲を明らかにすることにあり、1986年以来ほぼ毎年行っている調査です。今回は2県の遺跡踏査を申請しましたが、実際にはヨズガット県のメルケズ郡、シェファアトゥリ郡の2郡での調査となりました。20遺跡を踏査しましたが、今回の調査で一番興味を引いたのは、新石器時代のものと思われる土器片が2遺跡で採集されたことです。通説では、クズルウルマック河に囲まれた地域には新石器時代の文化は極めて希薄、あるいは存在しないと言われてきましたが、新石器時代のものと思われる黒色の土器片をビュユックロック等で採集しました。
写真2:作業の様子
それと、ここ数年デリジェ川流域に点在する遺丘で採集している前期青銅器時代、つまり前3千年紀第四四半期に年代付けられる彩文土器は、ヨズガット県のメルケズ郡、シェファアトゥリ郡では一点も採集できませんでしたが、デリジェの彩文土器とほぼ同時期に年代付けられるアリシャル第III様式といわれる彩文土器を、かなりの数で採集することが出来ました。このことは、前3千年紀の第四四半期にはいくつかの彩文土器の文化圏がクズルウルマックに囲まれた地域にすでに存在していた可能性を示唆していると言えるのではないでしょうか。また、今シーズンの調査地域は、ヒッタイト帝国の本拠地のような所でもあるため、多くの遺丘で前2千年紀のヒッタイト帝国時代の土器片を採集することが出来ました。来シーズンもヨズガット県で遺跡踏査を行う予定です。
写真3:作業の様子
写真4:昼食の様子
遺跡踏査(2015年)終了
写真1:踏査遺跡
11月6日から開始した遺跡踏査(2015年)は、18日に終了しました。今回の踏査は、クルシェヒル県、ヨズガット県で24遺跡を回りました。特に今回は、クルシェヒル県とヨズガット県の県境になっているデリジェ川の北側を中心に踏査を行いました。1987年、1989年、2001年に調査を行った幾つかの遺跡は、当時安定したGPSがなかったこともあり、遺跡の位置を地図上に載せる上で多少の難点がありましたので、今回の遺跡踏査で再測定を行いました。
今回の遺跡踏査では、新石器時代、銅石器時代の土器資料を確認することはできませんでした。アリシャルフユックで見られる銅石器時代の土器の類いもあまり確認することできませんでした。両時代に関する土器に関しては、この地域ではもう少し調査を行う必要がありそうです。
写真2:踏査遺跡
前期青銅器時代に関する遺跡としては、昨年も調査を行ったギョック遺跡をあげることができます。ここでは、前期青銅器時代末に年代付けられる彩文土器片を採集しましたが、この類いの彩文土器は今回の調査でデリジェ川に近いところに位置する幾つかの遺丘で確認することができました。この彩文土器は、前期青銅器時代末のインターミディアット土器、チラデレ土器、アリシャル第III式土器等の彩文土器とは多少違っています。特に、スリップは他の彩文土器とは違いかなり厚く塗布されているのが特徴です。このギョクで採集した彩文土器にデリジェ土器と名称を与えていますが、今後はこの手の彩文土器を一つの手掛かりとして遺跡踏査を進め、前期青銅器時代後半の土器文化圏を明らかにできればと考えています。また、今回の調査でデリジェ土器を採集した遺跡からは爪形を施した土器片も確認しています。遺跡踏査の資料だけでは年代付けは不可能ですが、デリジェ土器と爪形文土器は、ほぼ同時期の可能性があります。これまで行った遺跡踏査では、デリジェ土器、爪形文土器は、クズルウルマックの南側では全く確認されておりません。どちらかと云うと、クズルウルマックに囲まれた地域でも北側、特にデリジェ川流域が一つのポイントになるのではないかと思います。
写真3:作業の様子
中期青銅器時代の土器資料も今回の地域ではそれ程採集することができませんでした。この時期の特徴的な赤色磨研土器は、幾つか見つかってはいますが、記憶に止める程採集した遺跡はハンイェリ遺跡ぐらいです。また、後期青銅器時代も中期青銅器時代とほぼ同じ傾向を示しています。
写真4:昼食の様子
鉄器時代に関しては、前期鉄器時代はほとんど確認することできず、どちらかと云うと中期鉄器時代から後期鉄器時代にかけて、特に後期鉄器時代の土器資料を数多く採集することができました。また、後期鉄器時代以降、つまりヘレニズム、ローマ時代に関する土器資料は、一番最後に踏査を行ったビュユックネフェス村の西側に位置するビュユック・カレでかなりの数を採集することができました。
遺跡の写真撮影等を行いましたが、第228回アナトリア学勉強会で今回の遺跡踏査についてお話しできればと思います。
遺跡踏査(2015年)を開始しました
写真1:踏査遺跡
11月6日、遺跡踏査(2015年)を開始しました。この調査の目的は、カマン・カレホユック発掘調査で見つかっている文化が、中央アナトリアでどのような広がりを持っているかを確認する作業です。ここ4年間は、クルシェヒル県に絞って調査を進めてきましたが、2015年はクルシェヒル県の北側に位置するヨズガット県でも調査を行う予定です。査察官として、イスタンブル考古学博物館の学芸員ネシェ・タシュデミルさん(女性)が派遣されてきました。5日はカマン・カレホユック考古学博物館、6日にはクルシェヒルの博物館、文化局、県庁、軍警察に行き、調査を開始することを伝え、6日の午後から遺跡踏査を開始しました。
写真2:作業の様子
ここ3週間は、アナトリアで云うところのパストゥルマ・ヤズ(干し肉の夏)、ファーキルレリンヤズ(貧乏人の夏)と呼ばれる小春日和が続きそうです。この時期を使って村人は最終の冬支度を行ないますが、我々もこの時期を逃すと遺跡踏査はなかなか難しくなります。この調査を持って、今シーズンのフィールド作業は最後となります。
クルシェヒル県における遺跡踏査(2014年)終了
写真1:踏査遺跡
3年前に再開したクルシェヒル県の遺跡踏査は、11月4日から16日までの約二週間かけて行いました。今回の遺跡踏査の目的は、クルシェヒル県の前3千年紀の文化を確認することと、銅石器時代、新石器時代の遺跡を調査することでした。
今回調査を行った地域は、1987年、2001年にも踏査を行っておりますが、再度調査を行った理由の一つには、遺跡の保存状態を確認することもありました。今回中央郡、チチェッキダウ郡を回って見た感想ですが、以前調査を行った遺跡の状態が予想以上に良好だったのには驚きました。ほとんど盗掘を受けていなかったことが何よりで、クルシェヒル県の遺跡保存が順調に推移しているようにも思いました。因にカマン郡では盗掘はほとんどなくなりました。
写真2:踏査遺跡
今シーズンの調査地域は、クルシェヒル県の中央郡とその北側に位置するチチェッキダウ郡でしたが、その中でもデリジェ川の流域に点在している遺跡で採集した彩文土器片には目を見張るものがありました。特に、以前も調査をしたギョク遺跡の側では灌漑用水路が開けられており、その際に出た土の中に前期青銅器時代の彩文土器片を数多く見ることができたのは大きな収穫でした。残念なことに、考古局からのお布令で昨年から土器片を採集することができなくなり、現場で一度採集した土器片を観察、その後は資料をその場に置いてくるようにとのことで、なんとも力の入らない調査となってしまいました。出来れば採集した土器片を研究所に持ち帰りゆっくり観察したいものです。遺跡踏査をして集めた資料が各博物館に山積みになっているとのこと、それを防ぐために考古局が土器片採集を禁止にしたとのことですが、調査をしている側にも責任はあるようです。
写真3:作業の様子
ただ、それでも遺跡で観察した土器片からは前期青銅器時代の文化圏を見出す上で一つの糸口が見えてきたのが何よりでした。残念ながら今回の調査でも昨年同様新石器時代の遺跡は確認することはできませんでしたし、しっかりした銅石器時代の遺跡を見つけることもできませんでした。これまでの通説通りクズルウルマック川に囲まれた地域内では、まだ諦めたわけではありませんが、新石器時代の文化はないのではないかと危惧しています。
写真4:作業の様子
査察官としてクルシェヒル考古学博物館の学芸員であるサドゥルラフさんが派遣されてきましたが、彼は我々の調査に実に協力的で、食事の際にも手伝ってくれたのは勿論のこと、村で情報を入手する作業にも積極的に関わってくれました。我々が調査中に村人がジャンダルマ(軍警察)に通報することが多々あり、今回もジャンダルマが遺跡を計測中にやってきましたが、サドゥルラフさんは全く慌てることもなく彼らと話し込んでいるのには何処か余裕さえ感じましたし、是非また一緒に調査をできればと思いました。
来シーズンは、チチェッキダウ郡とその側にあるアクチャケント郡の調査を行いたいと思います。
クルシェヒル県における遺跡踏査(2013年)終了
写真1:踏査遺跡
写真2:作業の様子
今年度の遺跡踏査は11月5日から11月16日にかけて、クルシェヒル市の北側にあるセイフェ湖の東側と北側地域に焦点を絞り、以下の4点の目的をもって行いました。
1)以前調査を行った遺跡の状態を把握すること。2)カマン・カレホユック発掘調査で確認されている文化がクルシェヒル県でどのような広がりをもっているかを明確にすること。3)カマン・カレホユック遺跡の発掘調査では遺物のみで、その文化層がまだ確認されてない銅石器時代、新石器時代の遺跡を検出すること。4)新たに未踏査の遺跡を探し出すこと。
写真3:作業の様子
文化・観光省考古局からは、査察官としてイスタンブルの文化保存局からネシェ・タシュデミルさんが派遣されました。
調査期間中に30遺跡を回りましたが、ローマ時代のトゥミュルス(墳墓)を含めて新たに8遺跡を確認しました。以前調査した遺跡の中に重機によって徹底的に破壊されているものや、新たな盗掘を受けているものがあったことは残念でした。遺跡踏査中に、遺跡周辺の村人から色々と情報を得ることができますが、何処の村でも『黄金伝説』が語られており、遺跡の盗掘と強く結びついている様に感じられました。
写真4:作業の様子
今回の遺跡踏査で、新石器時代の遺跡を確認することはできませんでしたが、銅石器時代の土器片は幾つかの遺跡で採集することができました。また、以前の調査でこの地域では確認できなかったアリシャル第III様式あるいはインターミディエット様式の土器片等を採集することができ、前期青銅器時代の文化圏を考える上では重要な手掛かりを得ることができました。また、どの遺跡でも後期鉄器時代末の土器片がかなりの数で採集されたのに反し、初期鉄器時代の土器は全く確認されず、中期鉄器時代の土器片も極めてわずかしか採集できなかったことは、この地域の紀元前1千年紀の文化を考える上で重要なポイントとなりました。
現在、遺跡踏査で採集した遺物の洗い、乾燥、整理、実測を行っているところです。調査の詳細は、2013年トルコ調査報告会、アナトリア学勉強会で発表する予定です。
クルシェヒル県における遺跡踏査(2012年)終了
写真1:踏査遺跡
2008年から2010年までの3年間を除きますと、1986年以来中央アナトリアの遺跡踏査を継続して行なっています。この踏査の目的には二つあります。一つは中央アナトリアの遺跡を確認することであり、もう一つはカマン・カレホユック遺跡で確認した文化が中央アナトリアでどのように展開しているかを明らかにすることです。
2012年の遺跡踏査は、クルシェヒル県のムジュル郡、ボズテペ郡を中心に、11月5日〜16日まで行いました。特に、今回の調査では、カマン・カレホユック遺跡でも出土している銅石器時代、新石器時代の文化圏を考察することを目的として調査を進めました。
写真2:踏査遺跡
今回の遺跡踏査には、カイセリ考古学博物館からファーティフ・メフメット・ユルゥドゥルム学芸員が査察官として派遣されました。若手の学芸員で、調査中もなかなか積極的にサポートをしてくれたのが何よりでした。
18遺跡の調査をしましたが、87年、01年にも一度調査をしたものが中心となりました。ただ、今回の調査では、目的とした銅石器時代、新石器時代の文化を包含していると思われる遺跡を確認することが出来ませんでした。多くの遺跡で後期鉄器時代の土器資料を採集することが出来ました。
写真3:作業の様子
それらは鉄器時代末からローマ時代にかけてのものが主で、初期鉄器時代などの土器資料はほとんど採集することが出来ませんでした。この結果は87年、01年の結果と大きな差異は認められませんでした。前期青銅器時代の土器資料も数多く採集することは出来ましたが、前期青銅器時代後半に年代付けられるアリシャル第III様式土器、中間期土器、チラデレ土器、デリジェ土器等の彩文土器は一点も確認出来ませんでした。
2001年に踏査を行なったモルララハヌン・ホユックを再訪しましたが、大型のバックフォー等による盗掘が行なわれ、以前の姿を留めていませんでした。その他の遺跡は、予想以上に盗掘等を受けておりませんでした。
この遺跡踏査に関しましては、12月23日の報告会で発表を行う予定です。
クルシェヒル県の考古学的一般調査(2011年)終了
11月10日に開始したクルシェヒル県の考古学的一般調査は、11月21日に終了しました。今回の調査では、1986年、2000年に踏査した遺跡の再調査も行いました。2000年以降、トルコでは経済成長とともに開発による遺跡破壊が見られるようになったこともあり、これまで調査した遺跡の現況を把握することも目的の一つとしました。それと同時に今回の踏査では、カマン・カレホユック遺跡で確認している前期青銅器時代、銅石器時代、新石器時代の遺物の採集とその文化圏の確認に重点を置きました。今シーズンに調査を行った遺跡の状態は、幾つか盗掘坑の見られる遺跡もあることはありましたが、全体的には予想以上に状態は良好でした。少なくとも開発によって破壊を受けている遺跡はありませんでした。
今回の調査期間中には24遺跡を踏査することが出来ました。遺跡として、主としてホユック、フユック、テペ等の丘状のもの、ドゥズ・イェルレシム・イェリと呼ばれる平らな遺跡、更にトゥミュルス-墳墓の三形態がありました。第一番目の丘状のものは、12、第二番目のドゥズ・イェルレシム・イェリのものは6、トゥミュルスは4基、城塞1、碑文1を数えました。丘状の遺跡では、満遍なく銅石器時代から鉄器時代までの土器片を採集できましたが、ドゥズ・イェルレシム・イェリでは、銅石器時代、ローマ、ビザンツ等が中心でした。どちらかと言うと一つの文化の土器片を数多く採集したかたちです。つまり、ドゥズ・イェルレシム・イェリは丘状の遺跡のように長期間集落地として利用されなかったことを意味しているのかもしれません。トゥミュルスは全部で4基確認しましたが、何れも頂上部に大きな盗掘坑がありました。また、城塞、つまりカレと呼ばれる遺跡には大形の石で築かれた壁を確認することが出来ました。周辺で採集した土器片から、カレはローマ、ビザンツ時代のものと思われます。碑文はヒッタイト帝国時代のヒエログリフが刻まれた大岩で、碑文の一部は破壊されていました。
今回調査を行った遺跡の中で、先史時代の前期青銅器時代、銅石器時代の土器片は、カマン・カレホユックの北東数百メートルに位置するハジュ・エブラスィニン・タルラス、北東1キロにあるダルオズ、ダルオズ2、カーヌジャックなどで数多く採集することが出来ました。特に、これらの遺跡では銅石器時代の土器片を確認したと同時に、前期青銅器時代の土器片も採集することが出来ました。銅石器時代の刻文土器片は、クズルウルマックの南側に位置する遺跡でも採集されており、かなり広範囲に渡ってこの刻文土器の文化圏が広がっていることを今回の調査で明らかにすることが出来ました。ただ、この刻文土器が前期銅石器時代に年代付けられるのか、あるいは後期銅石器時代に年代付けられるかについてはもう少し時間が必要です。
前期青銅器時代の土器片は、既述したように丘状の遺跡で数多く確認しています。前期青銅器時代に関しましては中央アナトリアでも幾つかの遺跡で調査は行なわれておりますが、何れも明確な層序が確立されていないのが一つの大きな問題点と言えます。この時代こそある意味では『暗黒時代』と言えるのかもしれません。
来シーズンも発掘調査後に遺跡踏査を行う予定です。尚、今回の調査に関しましては第197回アナトリア学勉強会で報告を行う予定です。
クルシェヒル県で考古学的一般調査(2011年)を行っています
11月初旬にヤッスホユック発掘調査が終了した後、気球にカメラを搭載してカマン・カレホユックとヤッスホユックを撮影しました。11月6日から8日まではイスラームの犠牲祭でしたので、研究所もこの三日間は休みでした。その後2007年まで毎年行っていた考古学的一般調査を今シーズンから再開、11月10日からクルシェヒル県カマン郡、中央郡、アクプナル郡で盛んに行っているところです。今回の調査では、カマン・カレホユック遺跡で出土し始めている前期青銅器時代、銅石器時代、そして新石器時代の遺跡の確認を行っています。査察官として11月8日にアダナ考古学博物館学芸員オヤ・アスランさん(女性)がキャンプ入り、我々の調査に同行してくれています。中央アナトリアは既に初冬に入ったこともあり、早朝の気温もマイナス4〜5度とかなり厳しいものがあります。これまでのところ21の遺跡を踏査しました。